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科学と医薬を担当。21世紀は生物学の世紀であると信じている


ヴェンターはこれまでに、業界の異端児として各方面の怒りを買ってきた。DNA解析の成功は20世紀屈指の科学的進歩だったにもかかわらず、彼にはノーベル賞が贈られることもなく、学術界からは科学より利益に興味がある人物とのレッテルを貼られている。実業界でも同様で、各産業をひっくり返す発見をしたのにもかかわらず、出資者や役員との関係をこじらせ、波乱にとんだキャリアを送っている。

ヒューマン・ロンジェビティは、ヴェンターにとって、自身の功績を正し、科学界を自身にひれ伏させると同時に巨万の富を得る最後のチャンスだ。彼は、人類の誰もが多大なる関心を寄せる「私はいつ、どのように死ぬのか」という問題を、根底から揺さぶろうとしている。

落ちこぼれだった少年時代 転機は水泳とベトナム戦争

現在のシリコンバレーに近いカリフォルニア州ミルブレーで育ったヴェンターは、学校での成績は非常に悪く、高校生時代には母親から時折、腕にドラッグの注射痕がないかチェックされていたほどだった。そんな彼が、その輝かしい将来の予兆を初めて示したのは、水泳だった。

最初こそはパッとしなかったものの、ある夏、コーチの助言によって競争心に火が付いた彼は、夏休みの3か月間、猛烈な自主練に励み、誰にも負けない選手へと成長した。「時代が違えば、五輪に出ていたかもしれない」と彼は語る。だが、ベトナム戦争の勃発によって、彼の運命は大きく揺さぶられる。

徴兵されたヴェンターは、20歳で海軍の衛生兵としてベトナム戦争に従軍し、負傷兵の治療の優先順位を決める任務を担当した。誰が生き、死ぬかを決めるという経験は、彼の心に深い傷を残し、自殺念慮を抱くようになった。一度、入水自殺するために沖合に向かって泳いだこともあったが、1.5キロほど進んだところでサメに取り囲まれ、思いとどまったという。

だが、彼の今の人格があるのも、ベトナムのおかげだ。彼は、できることならもう一度ベトナム戦争を経験したいとすら語る。「あの経験から得られた個人的な成長を考えると、もしできることなら、もう一度自分にあの経験を強いたい」

帰国後は、コミュニティーカレッジを経て、カリフォルニア大学サンディエゴ校に入学した。当初は医師を目指していたが、後に研究者へと転換し、生理学と薬理学の博士号を取得。1976年にニューヨーク州立大学バッファロー校の教授職に就き、84年には米国立衛生研究所(NIH)に入所した。

NIHでは、ヴェンターのキャリアを特徴づけることになるテーマが確立された。そのテーマとは、生産性、「強欲者」としての悪評、そして「純粋な科学と金稼ぎとの対立」だ。NIHは、ヴェンターが新技術を用いて発見した数千個ものヒト遺伝子を、彼自身の名で特許申請するという、異例の決定を下した。ヴェンターは同僚らから強欲さを非難されたが、特許申請はNIHが自分の反対を押し切って行ったものだったと主張している。

いらだった彼は、1992年にユニークな運営法を採用した非営利の研究所を設立した。研究結果を公表前に営利企業のヒューマン・ゲノム・サイエンシズに提供することを条件に、ベンチャーキャピタリストから資金を調達したのだ。この関係は97年、データ公開をめぐるいざこざが原因で破綻。ヴェンターは4000万ドルの研究資金を手放すこととなった。

だが1995年、この研究所は画期的な成果をあげる。ハミルトン・スミスの提案を受けて取り組んだ生物のゲノム解析に、世界で初めて成功したのだ。この際の解析対象となったのは、細菌の一種。学術界で進められていた同様の取り組みに、何か月も先行する成果だった。

翻訳・編集=遠藤宗生

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