究極のネット社会はユートピアか? 映画「ザ・サークル」が示す境界線

映画「ザ・サークル」に出演するエマ・ワトソン(Pascal Le Segretain / gettyimages)


実はこの映画には原作がある。2013年に出版された同名の小説なのだが、こちらは明らかにそのような相互監視社会に対して警鐘を鳴らす趣旨で書かれている。

ところが、映画はラストが異なり、最後のシーンなどはどのようにとっていいかわからない。この状況をあなたはどう思いますか? と観る者に判断を委ねるような形で終わっている。そのあたりの中途半端さは、どうも観た後にすっきりしない気分にもなる。

監督のジェームズ・ポンソルトも、映画サイトのプロダクションノートで以下のように語っている。

「できれば小説と同じように、監視、プライバシー、携帯の無料アプリやネット検索、SNSなどのために自由をあきらめることについて、観客が様々な疑問を誘発される映画にしたかった。これからの社会においてプライバシーに価値を見出せるのか? 常にモニタリングされている状態でも自由と言えるのか? 巨大な監視システムから抜け出す権利は守られるのか? そもそも私たちに選択権はあるのか? といった具合にね」

この発言から、これがメジャー作品の初監督になるポンソルト自身が、自分の考えた方向とはやや異なる結末になったことをそっと告白していると考えてもよいだろう。

どんなパワーバランスが働いて、このような中途半端な結末になったのかは、密かに推し量るのみだが、少なくともこの作品が提示する「ネット社会における完全なる情報共有化と相互監視社会」は常に背中合わせで存在しているというシチュエーションは把握できるかもしれない。

映画では、創業者のイーモンたちが「トゥルーユー」や「シーチェンジ」で収集した膨大なデータを会社のために利用しようとする「悪事」(どんなものかは最後まで明らかにされないが)が発覚する。この作品が多少中途半端にせよ、完全なる情報共有化の先に広がる相互監視社会への警鐘を鳴らしていることは確かだ。

究極のネット社会はユートピアとなるのか、ディストピアとなるのか、それを考える卑近な例をこの作品は提供している。それにしても、やはり最後近くに登場する、日の丸に似た「サークル」の社旗が大いに気になるのだ。

文=稲垣伸寿

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