「田舎はモノが回ってくる」現象を生む、もったいない精神

娘に回ってきた、木製のデスク。使い込まれた風合いがインテリアに馴染む。


この半年を、どう考えるか。学習机はあったらいいけど、なければダイニングテーブルで勉強すればいい。ダイニングチェアも、あったらいいけど、なければ抱っこして食べさせればいい。ミニマリストにとって、ここは大事な駆け引きなのである。必要なモノなのか。どうしてもないと成立しないモノなのか。

そして仮に、どうしても必要なものだったとしても、すぐに購入せずに、待つことができるかどうか。これがなかなか難しい。信じて待つ……といっても、なんの根拠もない。それでも、簡単には購入しないように心がけている。友人や馴染みの骨董品店には、「こんなものがあったら連絡が欲しい」と言っておくかもしれないが、欲しいと思ったときに、すぐにポチッとしない、新品を入手しない。当然のことだが、そうしないとモノは回ってこない。

なぜそうまでして待つのか、と思う人もいるかもしれないが、簡単に言うと、回ってくるモノには、購入したモノ以上の価値があるからだ。机もダイニングチェアも、子どもたちが使わなくなったら、仲のいい友人に譲ることはあっても、捨てたり、リサイクルショップに出したりはできないと思う。購入してから「やっぱりあっちがよかった」みたいな世界とは無縁の、これしかないという必然性をもって、使う前から既に大切なモノとして、回ってくるのだ。

情報ではない、顔の見える「お節介」

「モノが回ってくる」とき、人が介在することが結構ある。多くの場合、つないでくれる人にどこかで偶然会って話すか、もしくはわざわざうちまで足を運んでくれて、その情報を受け取ることができたときに、モノが回ってくる。そして不思議なことに、ツイッターやフェイスブックで「これ要りませんか」と投稿されたモノより、それが欲しかったと思えるモノであることが多い。

これはおそらく田舎の人の習慣なのだと思うが、誰かに何かを伝えたいときは、相手の声が聞こえる電話以上のコミュニケーションを取ろうとする。会いにいくのだ。そこは時間を惜しまない。ちょうど何かのお礼が渡せていい。この、顔の見える関係こそが、「モノが回ってくる」背景にある。

例えば、家具屋に行ったら、どんなモノが置いてあって、ご主人はどんな人なのか。「回ってくるモノ」を取り囲んでいる、さまざまな人間関係や事情を受け取ることができる。きっと、今回いただいた学習机やダイニングチェアがなかったとしても、解体前の家具屋にふらっと立ち寄っていたと思う。そうやってまた、つながっていく。

そして家具屋から机とダイニングチェアを持ち帰ったあと、馴染みの骨董品店の店主を家具屋の店主に紹介した。これまた解体前にすべり込むようにして、さまざまなモノを拾い上げてくれたと後から聞いた。

家具屋が解体されることを教えてくれた友人は、私がこんなものが欲しいと知っていたわけではない。骨董品店を紹介してほしいとお願いされたわけでもない。普通に考えるとお節介かもしれないが、そのお節介が度を越していなければ、みんなが喜んでくれて、そのおかげで、自分もあたたかい気分に浸れるのである。

「金は天下の回りもの」ということわざがある。

使ってこそお金は増えるもの、という考え方に反論をするつもりはないが、田舎では、お金よりももっと大切にしたい関係性やリテラシーがあるのだと思う。経済が社会を支配している情勢とは別の次元で。そしてその関係性が広がりながら、あるいは深くなりながら、「回っていく」。

ありがたいことに、そこにモノは、いくらでもついてくるのである。

文=増村江利子

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