「生業を何にするか」と問う
高原自身、変化を恐れているわけではない。高原の歴史は、父・高原慶一朗がつくり上げたユニ・チャームにメスを入れて変革させていく歴史だったからだ。
高原は1961年、愛媛県に生まれた。父が立体駐車場などに使われる木毛セメント板製造メーカーを起業。幼いころから、「将来は自分が会社を継ぐもの」と考えていた。海外を意識したのは高校時代だ。アメリカに1年間留学して、世界の大きさに衝撃を受けると同時に嫉妬を覚えた。
「欧米の企業のスケールの大きさや先進性を目の当たりにして、これはかなわないと思いました。愛国心といえばいいのかな。劣等感の裏返しで、負けたくないという気持ちがわいてきました」
当時はまだビジネスを何も知らない高校生。しかし、世界と戦う青写真は、すでにこのときに描かれていた。
「世界をすべて牛耳るのは、どの企業も難しい。ただ、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの世界三極の中でもっとも伸びしろのあるのはアジアであり、アジアで事業をするのに地政学的に有利なのは日本。アジアでナンバーワンになれば、世界的企業と肩を並べられると考えました」
入社後は理想と現実のギャップに苦しんだ。入社前は銀行で経験を積んだが、外にいるときは父が率いる会社が輝いて見えた。しかし中に入ると、現実はまるで違うものだった。無理な多角化の影響で社内はバラバラ。不採算事業の整理が必要だったが、多角化を進めた父には誰も逆らえず、社員も大企業になった現状に満足しているフシがあった。
猫の首に鈴をつけられるのは、いずれ会社を継ぐ自分しかいない。改革を決心した高原は、「生業を何にするか」から発想をスタートさせた。
「時代背景もあって、父は規模を大きくしたい、上場したいという思いで会社を経営していました。しかし、私は会社の規模や売り上げに心が動かなかった。関心があるのは、人々の生活をよくするために何をするのかということ。そこから考えたことで方向性はおのずと決まった」
高原が打ち出したのは「本業多角化、専業国際化」だ。経営資源をコアコンピタンス──不織布・吸収体の加工成形技術──に集中させて、そこから派生した事業のみを展開。その中で強いものは海外にも展開させる戦略だ。
変化を嫌う社員からは強い抵抗があった。祖業の建材事業を含め、多角化事業の多くを整理の対象にしたため、担当役員と衝突したこともあった。01年、39歳で社長に就任したときも逆風はきつかった。若い2代目社長の手腕を不安視したのか、株価は低迷。父からは「おまえのせいで株価が下がるんじゃ」と罵倒された。
それでも改革の手は緩めなかった。本業から遠い事業を一つずつ整理して、アジアを中心に海外展開の種をまき続けた。
エジプト・カイロのスーパー店頭にて
マネジメント手法も、父の時代とは大きく変えた。先代は強いカリスマ性を持ち、トップダウンで会社を引っ張った。しかし、それが社員の思考停止を引き起こしていたことは否めない。高原が新たに目指したのは「共振の経営」だ。
「経営層は現場の生の情報に触れて考える。現場は経営層との対話を通じて経営者の視点で自分の仕事を見る。現場と経営がお互いに振り子のように行ったり来たりしながら、日々の工夫や知恵を出していく。それが私の理想とする経営の姿です」