歌姫「降板」から知るオペラ開幕までの舞台裏

(Photo by Oli Scarff/Getty Images)


「ソプラノ」にも種類がある

しかし、そもそもなぜネトレプコが、ノルマ役を歌えなかったのか? ソプラノ歌手なのにソプラノ役が歌えないのか、と思われるかもしれませんが、ひとくくりにソプラノと言っても実は細かく分かれていて、声質によってできる役も異なります。ここではわかりやすくシンプルに、4種類を説明しましょう。

コロラトゥーラ・ソプラノ
最も高い声を要求されるソプラノ。高いドの上のファの音まで奇麗に歌えることと、細かい音符が繋がった早いパッセージを歌う「アジリタ」と言われるテクニックが求められます。「魔笛」の夜の女王役などが代表的。

レッジェーロ・ソプラノ
声の軽やかさが大事。高いミの音までを奇麗に歌うことが求められます。アジリタの高い技術力も必要です。代表的なのは、「ルチア」のルチア役や「フィガロの結婚」でフィガロと結婚する小間使いのスザンナ役など。

リリック・ソプラノ
レッジェーロよりも少し重く、美しく流れる声が求められ、椿姫や蝶々夫人などの有名オペラの主人公はこの声が多いです。リリック・ソプラノの中にも高め(高いドの上のミのフラットまで歌える)と低め(上のドの上のレまで歌える)があります。

ドラマティック・ソプラノ
この声は豊かさと大きさが求められます。高いドまで歌えれば大丈夫ですが、五線譜の中にある音符は低い音でもきちんと鳴らせる豊かな中音域も肝心です。ワーグナー作曲のオペラのソプラノ役や、アイーダなどが代表的な役です。

役が務まるかは「半音」の違い

お気づきでしょうか。最高音はたったの“一音や半音の違い”なのです。しかし、一音異なるだけで、得意な音域や音の色合いは異なるので、まったく違う音楽が作曲され、結果まったく違う音楽が聞こえるものです。もちろん人によって守備範囲が広い狭いはありますが、一番得意な領域はだいたい決まっています。ちなみに私は低めのリリックからドラマティックのソプラノで、絶対に夜の女王なんて歌えません。

声には、もうひとつ変化の要素があります。人の声は、歳とともに体が変わっていくことで変わっていきます。声帯が成長しきるのはだいたい30歳。それまでは声はどうしても若くて未成熟です。その後、高い声のほうが早めにピークを迎え、次第に低い声がピークを迎えていきます。一般的には年とともに、重くなり、より落ち着いた声に変ってくと言われています。ですから、歳によってできる役も変わっていきます。

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2007年、ベルリン国立歌劇場でマスネ作曲の「マノン」に出演したネトレプコ(Photo by Getty Images)

さて、ノルマ役がなぜ難しいかといいますと、ドラマティックなソプラノが得意とするような低い声での力強い表現と、レッジェーロ・ソプラノが得意とするような高い声で技巧的に細かい音符を歌いまわすテクニックが両方必要とされるからなのです。両立できる人はほとんどいません。

ネトレプコはそもそも、高めの声の役で世の中に出てきた人でした。その後年を重ね、中・低音域が充実してきたところでノルマに挑戦したかったのでしょう。実際、世界に数人しかいないノルマの歌い手も、彼女と同じような声の変遷を経た歌手たちが多いのです。しかし、高い声とテクニックを失わずに、低い声を充実させることは誰もができることではありません。ネトレプコのような技術力の高いスター歌手であっても、できないこともあったわけです。

声という楽器は、他の楽器と異なり、声帯そのものが楽器で、取り換えることができません。どんなに上手な歌手でも、生まれ持った声があり、何でも好きな役をできるものではないのです。また、昔歌えた役が今でも歌えるとも限りません。その時歌える役は本当に少ないその時だけの貴重なものです。

ソプラノ歌手を聞くときには、この歌手は今、どんな声なのかを考えながら聴いていただけるとより楽しんでいただけるのではないかと思います。

文=武井涼子

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