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治らない患者とは縁を切る病院

佐々木は1975年、京都府に生まれた。両親は京大の大学院生同士の学生結婚で、幼い頃は和歌山県貴志川町(現・紀の川市)に暮らす祖父母に預けられている時間が長かった。山に囲まれた自然豊かな土地で、朝から晩まで川で魚獲りをして過ごした思い出は少年時代の原風景だ。

父親の就職が大手電機メーカーに決まった後は社宅を転々とし、小学校3年生のときから茨城県へ。医師を志したのは中学生の頃、祖母の家で手塚治虫の『ブラック・ジャック』に夢中になったのがきっかけだった、と照れくさそうに笑う。

「中3のときに母が脳腫瘍になったことも、理由の一つですね。急に『目が見えない』『頭が痛い』と言い始めた母を、筑波大学の先生がパシッと手術で治してくれた。ちょうど『ブラック・ジャック』に傾倒していたのもあって、医者ってスゲェ、って。以来、一直線に医学部を目指しました」

同じ筑波大学を卒業した彼が「在宅医療」の世界に出会ったのは、秋葉原にある三井記念病院での勤務を経て、東京大学の大学院で学んでいたときのことだ。

当時、佐々木はかつて夢見たはずの医師の仕事の現実に、多くの矛盾や幻滅を感じるようになっていた。医学部を卒業後、民間の三井記念病院を就職先に選んだのは、「一人で患者さんのすべてを診る総合診療医になりたい」という思いがあったからだった。大学病院の医局は専門医を目指す仕組みである一方、三井記念病院は研修医がすべて内科医として採用される。その中で循環器や消化器といった疾患を、一人で横断的に診療できることが魅力的だった。

ところが、そこは患者に対して高度な医療を提供する大病院である。研修医はしばらくすると、「サブスペシャリティ」と呼ばれる専門分野を決める必要があり、3年目に内科領域から消化器内科へ、5年目には消化器内科から肝臓内科へと専門性を結局は高めていくことになった。

その頃、佐々木は肝臓がんの専門医として、日々、患者の治療に当たる日々を送っていた。新しい技術だった「ラジオ波」の治験に加わり、肝臓に生じたがんを来る日も来る日も焼き続ける……。

「でも、肝臓のがんは多発するので、いつかは治せなくなる。病院は治らない人たちの来る場所ではないので、そうなると患者さんとの縁を切っちゃうんです。その先、あの人たちの人生がどうなったかを僕らは全く知らない。そのことに居心地の悪さを感じるようになって──」

一度抱き始めた違和感は研究職に就いてからも拭えず、一時は「違う形で医療の世界に携わっていく道もある」と考え、マッキンゼーの「ヘルスケアチーム」を志望して内定をもらってもいる。転機が訪れたのは、その転職までの空いた時間を埋めるために、新宿のクリニックで在宅医のアルバイトを始めてすぐのことだった。



あるとき、彼はALS(筋萎縮性側索硬化症)の中年女性の自宅を訪れた。彼女はすでに気管切開され、夫が24時間付きっきりで吸引をしている状態だった。

「僕は最初に彼女を見たとき、『ああ、やってしまったな』と思ったんです。というのも、病院で働いていたとき、僕はもうすぐ呼吸機能が廃絶してしまうALSの患者さんに、人工呼吸器を勧めていませんでした。残された一生をベッドで天井を見ながら暮らす。その人生を支えるために、家族はずっと傍から離れられない。延命治療は選ばずに、緩和的な措置をしながら最期を迎える方が、患者さんにとっても家族にとってもいい、と考えていたからです」

ところが彼女はいつ訪問しても、文字盤で「先生、こんにちは。今日も特に変わりはありません」と言う。そして人工呼吸器の設定を細かく調整すれば、付けていることも普段は忘れているくらいだ、と続けるのだった。

「ご飯は食べられないけれど、赤ワインが好きな彼女は口の中をワインで満たし、味と香りを楽しんでいました。酔っ払いたいときは、胃ろうからワインを入れる。ご主人とときどきホテルのビュッフェに遊びにも行く。制限はあるけれど、その中で日常生活の質はいくらでも上げられることを、彼女は僕に見せてくれたんです」

病気になってから、仕事一本だった夫がいつも私の傍にいてくれるんですよ──と彼女は話し、それを傍らで聞いていた夫も「仕事って家でもできるものなんですね」と穏やかに笑っていた。

二人に接することで佐々木が胸に刻んだのは、「人は希望を生み出す存在なんだ」という実感だった。そして、その実感は彼自身の「患者観」をこれまでとは全く異なるものへと変えてしまう力を持っていた。

文=稲泉 連 写真=小田駿一

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