ボクも放送作家の端くれである。本当に心に刺さる。「よく言ったな」と思う。
今、テレビが揺れているのは間違いない。
今から16年前の2001年、佐野眞一さんが、「だれが本を殺すのか?」という書籍を書いて大ヒットした。今春、「誰がアパレルを殺すのか?」という本が発売されアパレル業界のみならず、ビジネス界全体で話題になっている。的を得ていると思う。
この国の産業の中には、「誰が〇〇を殺すのか?」は大量にある。自動車業界、家電業界など、数え切れない。今は政治もそうなのかもしれない。
筆者もコンサルタントという立場でいろいろなアパレルに携わっているが、この本に書いてある内容に共感ができる点が多い。一番は「変化について行ってない」「守る方法論を考えている間に手遅れになっている」という点だ。
三越伊勢丹ホールディングスに激震が走ったように、実はテレビ業界にもいろいろな激震が次々と走っている。先日も、フジテレビが番組内容でLGBTに対し差別的表現があったと社長が謝罪を下ばかりだ。一体何が現場では起こっているのだろうか?
そこで、僕も関わっている改めてテレビメディアというものを考えてみる。
先日も、某キー局の有名プロデューサーと一緒だったが「昔はろくでなしの集まりが民放だった。それが新社屋を作ったり、上場したりして、いつの間にかちゃんとした人間になってしまった」と名残惜しそうに述べていた。先のフジのトラブルはろくでなしの延長だったのかもしれないが。
最近のテレビメディアの記事をみると、多くが「テレビ離れ」「視聴率の低下」「ネット引用での誤情報多数」「やらせ」などなど批判的な意見が多い。テレビ番組のいい話といえば、テレビ東京の「“池の水ぜんぶ抜く!”緊急SOS!ヤバイ現場に行ってみた!」と、フジテレビの月9「コード・ブルー」の視聴率が良かったことぐらいだろうか。
さて、本題。
「誰がテレビを殺すのか?」ということであるが、“殺す”という限りは、未来の加害者がいるということである。そもそも殺されるのかどうかさえ不明だが、まずは、未来の容疑者を洗い出してみようと思う。
放送局自身、それとも視聴者? もしくは僕ら制作者なのだろうか? それともインターネット? いや、スマホだろうか?
「スマホがなければ」「インターネットがなければ」という、“タラレバ論”は業界内でも多い。ということは、日本では半分近いシェアを持っているiPhoneを世の中に出した故スティーブ・ジョブズが容疑者なのだろうか? アマゾンで動画配信をしているジェフ・ベゾスか? 冒頭の明石家さんまさんがCMに登場しているネットフリックス? それともグーグル傘下のユーチューブだろうか? 容疑者が多すぎる。
そう、未来の容疑者は、一つではない。先の書籍のアパレル業界の衰退に関しても原因は一つではない。
まずは、テレビは殺されるのかどうか、という議論が必要である。多分、100年後もテレビ産業はあるだろう。どんな形かはわからないが、デバイスで映像を楽しむという産業はあるだろう。
もし、殺されると仮定したら、容疑者は、僕を含めた制作陣なのだろう。まず、僕は、面白い企画をあまり積極的に提案していない。通る企画を提案するようになってしまった。それは経済活動的な意味合いもあるかもしれない。
それよりもいつの間にか「面白いもの」ではなく「視聴率がとれそうなもの」「企画が通りそうなもの」を提案するようになってしまった。それはもしかすると「殺す」ではなく「自殺」なのかもしれない。自殺も含めて殺すには変わりない。