この連載では経済や文化の話を書いていきますが、今回は経済人や文化人になる前に必要な“教育”について触れたいと思います。何を隠そう、私も国立大学(学芸大学)の附属中学・高校の出身ですので、この件を取り上げないわけにいかないのです。
横並びでなく、個性を伸ばす
無試験で抽選とすることで、何が起きるのでしょうか?
自分の出身校に限って言うなら、国立附属校の良さは、入学試験によりある程度学力が平準化され、それら生徒と先生で作り上げた伝統があるからこその、のびのびと、生徒の自主性を伸ばしそうとする校風、そして、学生同士もお互いの考えの違いを認め、そのうえで社会性のある規律は保持する文化であったと思います。
麻布や武蔵といった有名私立校も同じと聞きますが、私の出身校も学校では受験対策はまったくしません。難関校を受験する人は多いですが、それも生徒の自主性で「受験したい人はする」という具合です。
卒業後の進路、活躍の場も様々です。音楽業界であれば、日本人で初めてドイツ宮廷歌手の称号を得たバリトンの小森輝彦さん、オペラの演出家として日本を代表する存在の中村敬一さんを輩出。学者や医者も大勢おり、精神科医の香山リカさんや脳科学者の茂木健一郎さんも卒業生です。経済界では、ことに外資系で成功している人が多いのが特徴です。芸能界ではオリエンタルラジオの中田敦彦さんと平井理央さんは同級生。本当にバラエティ豊かな人材を送り出しているのです。
多くの異才を輩出しているのは、なによりも、各人の考え方は自由であり、尊重するべきだという伝統があったからだと思います。流行りの言い方をすれば、多様性とは何かを理解し、尊重する校風でしょうか。その実現は、基礎をしっかり問い、切磋琢磨できる仲間を選び取る考え抜かれた受験システムがあってのことです。
「そういう教育なら私立でいいじゃないか」という意見を言う人もいます。しかし、高い学費を払わなくても、多様性を理解し、各人の個性を伸ばすことができる環境がなくなってしまうのは、私立の学校に通える裕福な子供だけが伸びていく、いわゆる教育格差を助長してしまうようでさみしく思います。
日本の学校教育はともすると、「みんなと同じ普通のこと」ができる子どもをよしとする傾向があります。しかし、発達の程度やぶっ飛び度合いは子どもによって異なります。私自身の話をすると、公立の小学校では本ばかり読んでいることを先生にも揶揄され、大変窮屈な思いをしていたので、好きなことを考えてのびのびしていられた国立附属の教育は、とてもありがたいものでした。
中学の先生は、研究室にある本を「自由に読んでいいよ」と解放してくれ、おかげで世界と日本の文学全集を読むことができました。高校時代はオペラばっかりやっていました。そのため中学も高校も、算数や英語は追試の常連で落第寸前……。親はずいぶん心配したようですが、「みんな3年生になれば自分で考え始めます」と先生は自信を持って説得してくれました。過去に同じような生徒たくさん見てきた先生や学校の経験から、この生徒は大丈夫、という判断基準があったらでしょう。
一般的に見れば、相当変な生徒だったと思います。しかし、先日も前出の小森輝彦さんと語りあったのですが、「みんな変だったから、自分がおかしいと思ったことはなかった」のです。