京都・烏丸通りに面したビルに入り、稲盛財団の「サロン」と呼ばれる一室で、85歳になる理事長の稲盛和夫にインタビューをしていたときのことだ。
「このへんでやめましょうや」
突然、稲盛が話を切り上げ、ソファから立ち上がった。彼は「稲盛さん自身は、今、欲はありますか」という質問に答えている最中であった。
京セラ、KDDIを立ち上げ、経営破綻したJALを再生させた稲盛は、中国で「経営之聖」と呼ばれる。拝金主義が渦巻く彼の地で、稲盛が説く「利他の心」が経営者たちに共感されている現象について意見を聞きながら、自身の欲について問うたところ、両目を閉じて沈思黙考した後、彼はこう話し始めていた。
「ないと言えば嘘になるかもしれませんが、もうないに近いですね。あれが欲しい、これが欲しいというのがないものですから、そういう意味でお金の使い道がないのです。今も印税が入ってきますけれども、出ていかないものですから」
ここまで話したところで、「やめましょうや」と、目の前でカーテンをぴしゃっと閉められたような緊張が走ったのだが、意外にも彼はこう続けたのだ。「麺がおいしいところがあるんです。一緒にラーメンでもどうですか」
稲盛フィロソフィの「原点」
「あの稲盛和夫とラーメンを食ったのか」正確に言うと担々麺なのだが、このときのことを誰彼となく話すと、一様に驚かれる。稲盛の経営哲学やJAL再生時の数々の逸話を聞いたり読んだりすると、烈火のごとく怒る厳しい人という印象が強いからか、ギャップがあるのだろう。
「稲盛さんは、良き師」と言う日本電産の永守重信はこんな話を教えてくれた。
「日本電産本社ビルの竣工式に稲盛さんがお祝いに来てくれたけど、鉢植えを指して『これは何や。あんたのところは全部、生の木を置いとるやないか』と言う。『水をやらないかんし、枯れたら捨てに行かんとあかん。全部手間がかかるやないか』と注意を受けました」
永守は「せこい」と言いたいのではない。「あの人の執念は本物」と言うのだ。その執念とは一体、何だろうか。「古い話になりますが」と、彼が述懐する人生最大の葛藤に原点がある。1955年、鹿児島大学工学部を出て入社した京都の碍子メーカー「松風工業」でのことだ。
「入社早々、給料が遅配で、同期入社の5人で『こんな会社にいてはいけないから、なるべく早く辞めよう』と話し合っていました。自衛隊の幹部候補生の募集を見て、私は受けようと思い、鹿児島の兄に戸籍抄本を送ってほしいと手紙を出したら、『せっかく入れてもらった会社なのに、不平不満ばかり言ってとんでもない』と戸籍抄本を送ってくれません。結局、同期は私一人になり、不平をぶちまける友だちもいなくなったので、設備が非常に粗末な研究室で研究に没頭することで、憂さを晴らしたのです」
近所でネギとモヤシと味噌を買って、研究室で自炊し、寝泊まりしながら、日本初の画期的なファインセラミックスの開発に成功した。