なかでもプロジェクトの成否を握っている開発エンジニアたちには、ユニークなキャリアを持った人間が多い。ローバー「SORATO(ソラト)」の軽量化を担う中心的エンジニア、古友大輔もそのひとりだ。
「ぼくはもともと宇宙にはまったく興味がなかったんです。高校生の頃、ル・マン24時間レースを見て自動車が好きになり、車を改造したりして楽しんでいました。それが嵩じて自動車関連の会社に入り、エンジニアとして働くようになった。自分としては趣味が仕事となり、とても充実していました」
HAKUTOのメンバーの多くは、小さな頃からの「宇宙」への憧れを語るが、古友は少し事情が異なる。とにかく公私ともに車漬けの毎日を送っていた彼に転機が訪れるのは、2008年のリーマン・ショック。世界的な景気後退は自動車産業をも直撃する。
「ぼくは自動車の高性能車両の運動性能に関わる仕事をしていたのですが、不景気の煽りを受けた会社から内装部門への辞令がありました。ぼくからすると、エンジニアと内装の仕事はミニ四駆とシルバニアファミリーくらいの違いがある。結局、内装の仕事には就かず、辞表を出して会社を辞めました」
自動車関連の会社を退社後、古友が籍を置くことになったのは、日本でも三指に入るエンジニアリングの会社で、JAXAなど宇宙関連団体の依頼を受け、宇宙ステーション用のコンポーネントを製作していたが、そこで初めて古友は「宇宙」と出会う。古友は国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」と地球をつなぐ通信システムや、宇宙空間で行われる実験用機器など、宇宙で使用されるハードウェアの開発に携わるようになった。
「6年間、宇宙ステーション関連のシステム開発に携り、合計22個のシステムを宇宙に送り出すことになりました。それなりにやりがいのある仕事ではあったのですが」
コンサバな宇宙業界への疑問
結果として、社会人のキャリアの半分を、はからずも「宇宙」に関わることになった古友だったが、どこか消化不良に苛まれていた自分もそこにはあったという。
「自動車のときに比べると、開発をいまいち楽しめない自分がいました。というのも、宇宙ステーションを取り巻く状況は、アポロ計画の時にNASAがつくったものがそのまま継承されていて、業界全体がかなりコンサバなのです。ルールも多く何か新しいことをしようと提案しても、前例がないと却下されることが多かった。しかも、僕が関わっていたシステムは有人飛行に関するもので、人命がかかっているためさらに厳しく、チャレンジングなことができない環境だったのです」
宇宙から地上に戻ろう──。新たな好奇心が保てなくなり、エンジニアとしての生き方を再び模索しようと考えていた古友の前に、ある人物が現れる。HAKUTOの代表である袴田武史だ。現れたと言っても、直接顔を合わせたわけではない。はじめて袴田と出会ったのは、PCの画面上だった。
2012年の秋、仕事から帰宅した古友は、家族が寝静まった真夜中、ひとり夕食を摂りながらPCを眺めていた。自身のフェイスブックのアカウントを開き、トンカツを箸で口に運ぼうとしていた矢先、目に「民間、月」というキーワードが飛び込んできた。
「最初は、宗教かなと警戒しました(笑)。気になってクリックしたんです。すると、動画に登場した袴田が『自作で宇宙機をつくって、民間で月に行く』と語るのです。正直、変な人がいるなと思いましたよ。この人は、宇宙船で地球を出るだけも大変なのに、それでモノを運ぶのがどれだけ困難なことなのかわかっているのかなと。それでも民間で宇宙に行くという言葉が気になって、いてもたってもいられなくなり、フェイスブックで直接連絡をとることになったのです」