仕事のしすぎでパートナーと別れ、中年以降一人暮らしをしている友人もその一人だ。最近、彼は口癖のように、「一人で死にたくない」と言う。彼は社会的には成功者で、すぐに悪化する疾病をもっているわけでもない。でも、死ぬことを考えると「家族が欲しい」「孤独死はいやだ」と言うようになった。その恐怖の理由を、彼と話し合ったことがある。
彼は誰かに看取ってほしい、自分が死ぬ過程を知ってほしいのだという。この「知ってほしい」という欲求がキーワードのような気がした。
そこで、私が親しくしている北鎌倉の円覚寺の横田南嶺老師に話を聞くと、老師は「知ることは愛につながる」とおっしゃる。なぜ、知ることが、愛につながるのかを考えてみた。
近年、自分の日常生活や食べたものを、逐一、世間に知らせるブログが定着している。また、そのときに思ったことを呟くツイッターも市民権を得た。これらの心理は孤独死を怖がる気持ちと似ているのではないだろうか。
誰かに知ってほしいという欲求。自分のことを知ってもらうことが、安心につながる。つまり、死ぬとき、医師や看護師がそばにいてほしいというわけではない。自分が死にゆくプロセスを傍らで知ってほしいのだろう。
老師によると、仏教には、「一切智に帰依する」という考え方があるという。「一切智」とは、すべてを知っている存在だ。自分の恥ずかしいことや苦しいこと、生まれる前や死んだ後、あるいは宇宙の始まりや次元を超えた一切の情報。森羅万象を知る存在だ。
老師は私に言った。
「人に知ってもらうと、人は安心する。さらに、人以外の大きな存在、それは仏といってもよいし、神といってもよい。その存在がすべてを知ってくれていると感じることができれば、孤独であっても、もちろん、孤独死の渦中でも安心がある」
今日も電車のなかで、人々が「つながり」を求めてスマホの小さな画面をのぞき込んでいる。人とのかかわりが薄まっていることへの裏返しなのではないだろうか。自分がこうして世の中に存在していることを誰かに知ってほしい。病気の人でも健康な人でも自分のことを知ってもらうだけで、安らぎを感じるのだろう。
あるいは、人生にはどうにもならないことが、一生のうち何度か起こる。そんなとき、他人に聞いてもらうことが救いになる。誰しもそんな体験をしたことがあるだろう。
また、その内容を恥ずかしくて人に言えなかったとしても、すべてを知ってくれる存在を感じることができれば、人は強くなり、孤独死を含め、何でも乗り越えることができる。
そもそも死は一人で旅立っていくものではないか。私には老師がそう言っているようにも聞こえるのだ。
桜井竜生(さくらい・りゅうせい)◎1965年、奈良市生まれ。国立佐賀医科大学を卒業。聖マリアンナ医科大学の内科講師のほか、世界各地で診療。近著に『病気にならない生き方・考え方』(PHP文庫)。