「世間に忘れ去られていた物語」。ここ数年、世界中で静かな熱狂を起こした一編をご存じだろうか。タイトルは『ストーナー』。1965年に発表された長編小説だ。著者のジョン・ウィリアムズは、22年に生まれたアメリカの作家。本作は彼の3作目であるという。刊行当時も『ニューヨーカー』誌の書評欄で紹介されたり(小さくではあるけれど)、その後のウィリアムズの著作が「全米図書館賞」(1973)を受賞したりもした。つまり無名作家の処女作とか、文芸同人誌に掲載されていたとか、そういうたぐいの書物ではない。実際に、かつてはアカデミック・ノヴェルとして、一部の愛好家に読み継がれてもいたようだ。しかし、それでも94年にウィリアムズ自身が亡くなると、彼の著作は少しずつ書棚から消えていった。物語は時の流れに埋もれ、忘れ去られてしまう。
そんな著作に再び光があてられたのは、2006年のこと。(中略)要するに、この小説は半世紀を経て発見されたのである。そしてそれは、時間の経過と、それにともなう空白に損なわれることのない、しなやかな物語を宿していた。
といっても、スウィートなラブロマンスがあるわけでも、ビートにあふれたストーリーテリングや美麗な文体に彩られているわけでもない。むしろ、ここで描かれているのは、とある普通の男が普通に送るであろう、しかるべきささやかな人生である。
主人公のウィリアム・ストーナーは、アメリカ中西部・ミズーリ州の貧農の家に生まれ、土とともに生きることを約束された青年。彼が農業を学ぶために大学に通うようになると、必修科目の英文学と出会い、その魅力にとりつかれてしまう。そして両親に黙って専攻を変え、卒業後はそのまま学府にとどまり、苦学の末に教師への道を拓いていく。
その後は一目で惚れた女性を伴侶とするが、結婚生活は初夜から波乱続き。教師としての仕事に情熱を見出すも、うだつは上がらず、逆に学内の争いに巻き込まれてしまう。
なんて切ない人生なんだろう。でもストーナーは、静かに受け入れ続ける。諦めではなく、それが最も正しい行いであるかのように。たとえばこんな一節がある。
「ストーナーは首を横に振った。『きみが考えているようなことはないよ。何があるのか、わたしは知らない。知りたいとも思わない』」
ストーナーは喪失の日々にうんざりしているのではない。彼はきっと知っているのだ。それでも時には、喜びが訪れるということを。例えば娘のグレースを授かり、予期もしなかった恋に落ちる。その瞬間、平凡な日常は小さな光を放つのだ。その小ささの繊細な描写ゆえに、私たちの心は芯から動かされる。
本書のように、一度は忘れ去られながらも、作家の死後、多くの支持を集めるようになった作品は少なくない。マイク・ディスファーマーという写真家もそのひとりである。彼はアメリカ南部・アーカンソー州の山間部にある小さな町で、1917年から写真館を営み、町の人々のポートレイトを40年間も撮り続けた。名も無き人々の姿は、無垢であるがゆえに力強い。人としての濃密な存在感が写し込まれている。
ともに平凡な人々が主人公で、それゆえに忘れ去られたのかもしれない。しかしだからこそ、心を揺さぶることがあるのだ。