ジャーナリストはまるで犬のように、自分たちを恐れている人をかぎつけ、飛びかかる。それが世の常だ。少なくともかつてはそうだった。
追い詰められたショーン・スパイサーの姿は、リチャード・ニクソン政権の報道官だったロン・ジーグラーをほうふつさせることが多い。ニクソンはあるとき、ジーグラーを乱暴に押し出してメディア対応をさせ、自分は立ち去ったことがあった。当時ジーグラーの言葉を信じていた人は、現在スパイサーの言葉を信じる人と同じく、ほとんどいない。
広報担当者の大半がそうであるように、スパイサーは愛想と親しみやすさを示すこともできるが、無理のある話をひねり出さなければならない重圧により、その体裁は崩壊しつつある。
スパイサーとそのチームだけが悪いのではない。党派心に基づいたメディアへの働きかけや、陰謀に触発された「フェイク(偽)ニュース」のまん延により、報道官とメディアの間での健全な協調関係が崩壊してしまった。
私たちはしばしば、意見のフィルターを通して事実を見て、自分の世界観に合わないものを拒絶する。すると事実が事実として見られなくなり、信じる者を安心させる一方で信じない者を攻撃するプロパガンダの手先と化してしまう。
真実は不変であり、代替はできない。信頼性が消え去ると、全てはまやかしとなるのだ。