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2017.05.11

イスラム「侮辱」の失言でまさかの落選、アジアで問われる宗教的寛容

ジャカルタでのアホック氏に対する抗議デモの様子(Photo by Ed Wray / gettyimages)


すなわち、ジョコ氏は、イスラム教徒としての信仰の強さにおいてプラボウォ氏と競うのではなく、インドネシアの普通の市民としての穏健な敬虔さをアピールした。選挙戦のコンサートでムハンマドを讃える歌を合唱し、祈祷を行うといったパフォーマンスを行うことで、中間層の支持を得ることに成功したのである。

今回のジャカルタ州知事選では、キリスト教徒であるアホック氏がこのようなアプローチを採ることには限界があった。ジョコ大統領は、アホック氏の抗議デモの背後には政治家がいるとして、宗教の政治利用を批判した。

アニス氏の最大の支援者はジョコ大統領と大統領選を争ったプラボウォ氏であり、もう一人の対立候補であったアグス・ハリムルティ・ユドヨノ氏の最大の支援者は父親であるスシロ・バンバン・ユドヨノ前大統領だった。プラボウォ氏もユドヨノ前大統領も、イスラム急進派と強い結びつきがある。

19年の大統領選では、アニス氏の勝利により勢いを盛り返したプラボウォ氏が再選を目指すジョコ大統領の強力なライバルとなると予想される。アニス氏がジャカルタ州知事として実績を上げれば、かつてのジョコ大統領のように人気を高めて、プラボウォ氏を超える有力候補になる可能性もある。また、第1回投票で敗北したアグス氏も、前大統領の長男、国軍のエリートという経歴、38歳という若さを武器に支持を伸ばす可能性もある。

今回のジャカルタ州知事選では、宗教をめぐる対立が結果を左右することになった。大統領選においても、同様の展開になれば、イスラム保守主義が政治・社会においてさらに影響力を増すことになるかもしれない。

アジアで問われる宗教的な寛容

ASEANの人口は6億に上るが、その4割をイスラム教徒が占める。マレーシアはイスラム教を国教とする国家であり、ナジブ・ラザク首相が率いる現政権はマレー・イスラム主義を重視する政策をとっている。

フィリピンでは、イスラム教徒はわずか5%に過ぎないが、そのほとんどが南部のミンダナオ島に集中している。イスラム過激派武装勢力は長年にわたりフィリピン政府と衝突してきた。現在のドゥテルテ政権は、イスラム武装勢力との和平交渉を政権の最優先課題の一つに位置付けている。

インドでは、イスラム教徒の人口は1億8千人とインドネシアに次ぐ規模に上るが、13億の人口の8割をヒンドゥー教徒が占めるため、国内ではマイノリティであり、牛を殺した男性への暴行など、ヒンドゥー民族主義の高まりがイスラム教徒を抑圧する事態がしばしば発生している。

世界的に著名なエコノミストでもあるラグラム・ラジャン前中銀総裁は、在任中、「宗教的な不寛容」の高まりへの懸念を表明した。ラジャン氏は昨年9月に退任したが、その背後には、保守的なヒンドゥー民族主義者の働きかけがあったともいわれる。

アジアの新興国は、グローバル化の恩恵を受けながら近代国家として発展を遂げてきたが、だからといって政治と社会が脱宗教化に向かうわけではない。グローバル化は、イスラム教徒の移動やコミュニケーション、イスラム経済のネットワークの拡大を促し、むしろ、新たなイスラム的価値観を発展させている。都市部の中間層や若年層にイスラム的価値を重視する傾向があるのはその一つの現れといえよう。

政治においては、今回のジャカルタ州知事選のように宗教のうねりが選挙の結果を左右し、また、「イスラム国」のような過激主義への共感を高めることもある。

一方で、こうした現代における「新たなイスラム化」は、必ずしも政治社会の不安定を生み出すわけではない。インドネシアでは、穏健な中間層が国民の大多数を占めており、宗教と世俗の境界は曖昧となっている。そのことがむしろ、社会的な分裂を回避し、民主化を定着させる基盤を提供してきたともいえる。民主主義と宗教が相互補完的な役割を果たすうえで鍵となるのは、宗教的な寛容の精神である。

インドネシアでは、例えばエジプトのように、ムスリム同胞団という宗教勢力と軍を中心とする世俗勢力が分裂し、宗教に基づく政治やクーデターが生じたわけではない。また、タイのように、選挙結果が軍を中心とする保守派に受け入れられず、民主的な手続きが停止されたこともない。イスラム保守主義の高まりが懸念されるとはいえ、その宗教的な寛容の精神は大多数の市民の間で共有されているのが基本的な構図であろう。

マレーシア、フィリピン、インドなど他のアジアの国々においても、政治と社会は、近代化のプロセスを経ながら、新しい宗教の波にさらされている。今後、インドネシアの知事選のように、民主主義と宗教的寛容が問われることになろう。

文=石井順也

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