村上春樹『騎士団長殺し』と映画『この世界の片隅に』[本は自己投資! 第8回]

『騎士団長殺し』(新潮社)


作中、ナチスがドイツ全土で起こした反ユダヤ暴動「クリスタル・ナハト(水晶の夜)」や、日本軍による南京事件などへの言及がなされる。個人にしろ、国家にしろ、もし変えられるのであれば変えたい過去がある。でも、やり直せるのであれば、いったいどの時点に戻ればいいのだろう?

「私」はやがてメタファーの国を旅することになる。それはさながらダンテがめぐる地下世界や日本神話における根の国のようだ。胎内めぐりのように暗闇を潜り抜けることで、「私」の魂は再生する。これまでの「私」から、新しい「私」へと生まれ変わるのだ。

だが、生まれ変わるためには、「イデア」と決着をつけなければならない。騎士団長の姿で現れた「イデア」とは何を意味しているのか。ひと言でいえば、イデアとは観念だ。観念は時に人を身動きできないほどがんじがらめにしてしまう。人類が犯した過ちの多くは、イデオロギーや妄執といった観念によって引き起こされた。

では、そのイデアを殺せば、人は自由になれるのだろうか?

もちろん村上のことだから、明確な結論を指し示したりはしない。イデアを殺すことが自由につながるのかどうかはわからない。ただ、その代わりにここで、はっきりと描かれていることがある。それは、「私」がイデアと決着をつける過程で、おのれの中にある暴力性を自覚するところだ。

「私」の手はすでに血に塗れてしまっている。そのことを自覚することで初めて、「私」は心の深淵を覗き見ることができる。人は皆、心の深淵に邪悪なものを隠しもっている。それを見つめることができた者だけが、現実と対峙することができるのだ。

この小説は3・11を迎えて終わる。現実と対峙するといっても、これほど過酷な現実はないだろう。

「私」はこの時、別れた妻とふたたびやり直すことを決め、「ある存在」を受け入れている。「私」が受け入れるそれは、自分の力ではどうしようもない、ある意味、降って沸いたように「私」の前に現れた存在だ。「私」が受け入れたその存在を、村上が「恩寵」と表現していることに注意しよう。他者を恩寵として受け入れることで、人は過酷な運命を引き受ける力を得るのだ。

この魂の遍歴の末に「私」が辿りついた地点について考えるとき、唐突に思われるかもしれないが、昨年大ヒットした映画『この世界の片隅に』のことを思い起こす。

映画のクライマックス近くで、広島の人々にとって決して忘れることのできない「あの日」が描かれる。この中で、爆風によって死んでしまった母親にすがりつく小さな女の子が出てくる。女の子は母親の体が朽ちはじめるまですがりついていたが、やがてフラフラと歩き出し、主人公たち夫婦と出会うのだ。映画は彼らが新しい家族となり、新しい日常を生きはじめたことを示唆して終わる。

原作者のこうの史代は、「私はいつも真の栄誉をかくし持つ人間を書きたいと思っている」というジッドの言葉を好きな言葉としてあげている。

戦争は多くの貴い命を奪い、たくさんの人の人生を滅茶苦茶にしたが、そんな荒廃した焼け跡の中から立ち上がったのもまた、戦争で痛めつけられた名も無き人々だった。孤児を家族の一員として迎え入れたり、女手ひとつで必死に家族を養ったりしながら、ふたたび社会を築き上げた彼らこそ、「真の栄誉をかくし持つ人たち」だったのだ。

村上がこの小説で描こうとしたのもまた、「真の栄誉をかくし持つ人」のことではなかったか。理不尽な現実を前にしたとき、私たちにはいかなるふるまいが可能か。抗いようのない災厄に見舞われたとき、私たちを支えるものは何か。

「なぜなら私には信じる力が具わっているからだ。どのような狭くて暗い場所に入れられても、どのように荒ぶる嚝野に身を置かれても、どこかに私を導いてくれるものがいると、私には率直に信じることができるからだ」

日本社会は明らかに変質した。それはまるで、まどろみから目覚めたら一挙に世界が変わっていたかのような変わりようだ。以前とは比べものにならないほど、私たちは過酷な現実を生きている。出来ればそんな現実から目を背け、当初の「私」のように、山の上の一軒家で誰にも邪魔されずに、好きな絵を描くことに没頭していたい。昨日と変わらない平和な日々が続いているのだと信じたい。

だが「私」は知ってしまった。イデアの存在を知り、この手でそれを葬り去り、死者の助けを借りて、危険なメタファーの世界を潜り抜け、現実と対峙できる強さを得て、ふたたびこの世に生還したのだ。

それは、読者に対する村上の呼びかけではないか。私たちは、もう以前の私たちとは違う。ひとりひとりが、「真の栄誉をかくし持つ人」なのだ。悲しみを抱きしめながらではあるけれど、ここから「はじまり」の一歩を踏み出そう──。

『騎士団長殺し』を、そんな魂の再生を高らかに謳った一冊として読んだ。

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文=首藤 淳哉

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