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ジャーナリスト


中国が「世界の工場」になる1980年代も、台湾のモノづくりには一つの危機だった。ジャイアントはいち早く上海近郊の昆山に工場を設け、中国でコストの安い自転車を生産するだけではなく、高級自転車の販売網の構築や宣伝に力を注ぎ、巨大な中国市場に足がかりを作ることに主眼を置いた。

当時は、中国の消費者が高級自転車を買うことなど想像できない時代だった。だが、劉金標は「世界の工場」から「世界の市場」になる中国の未来を見越していた。やがて中国経済がテイクオフし、人気ブランドの地位を早々に確立した。今や富裕層や中産階層を中心とする「中国人ユーザー」が経営を支える大きな柱になっている。

対照的なのは日本の自転車産業だ。70年代から80年代にかけて世界を風靡したブリヂストンなど日本の自転車メーカーは、完全に国際競争力を失っている。日本のマーケットのママチャリなど独特の市場にこだわった結果、ハイエンドの自転車の市場や高級車のOEMを台湾勢が確保し、ローエンドのママチャリまで中国勢に奪われる結果に陥ってしまった。

注目すべき数字がある。ジャイアントの自転車輸出価格の推移だ。一台あたりの価格は15年前、100米ドルそこそこだったが、現在は500米ドルに達する。付加価値化への成功を物語っている。日本の自転車は発展途上国への中古品の輸出が主体で、今日でも一台100米ドルにも及ばない。

この状況は、ガラケーにしがみついてアップルやサムスンのスマホに追随できなかった日本の携帯電話製造とも似ている。自国市場にしがみついて世界の潮流に取り残される「日本病」の実態が、ジャイアントという企業を見ているとよくわかるのである。

果敢なチャレンジ精神、一度決めたらやり抜く、という日本人が失いつつある企業マインドも、劉金標とジャイアントから感じることだ。

劉金標は73歳のとき、自転車で台湾を一周する「環島」にチャレンジした。周囲の反対を押し切っての決断だったが、きっかけは一本の映画だった。若者が自転車で台湾一周を行うストーリーなのだが、「いまやらなければ、一生できないことがある」という主人公のセリフに触発されたという。

高齢の経営者による自転車一周は、台湾社会に大きな反響を巻き起こす。自転車ツーリズムの育成を目指す「自転車新文化基金会」を設立し、自らそのトップに就任した。政府に自転車道の整備を働きかけ、台湾はいま国内外から台湾一周の旅に愛好家が殺到する「サイクリングアイランド」となった。

劉金標は、公共自転車シェアリング「YouBike」という新領域にもこの5年ほど、精力を注いできた。台北市で導入に大成功し、環境対策や交通渋滞解消にも役立つことから、ジャイアントが作り上げたシステムに世界各国からオファーが殺到した。劉金標は、引退後もこの仕事には関わり続けるという。

「自転車文化の普及やYouBikeなどのCSRは、ジャイアントというブランドを支える大きな養分になりました。会社をより輝かせる活力になるのです。いまの経営陣に急にバトンを渡しても、経営とCSRの両立はすぐには慣れないでしょう。ここだけはしばらく面倒を見ていきます」

「はまる、はまる……」

インタビューのなかで、劉金標は、記憶を少しずつ紐解くように、窓の外の広大な工場を見つめながら、創業の頃を振り返った。

創業時の社員は38人。小さな町工場だった。ジャイアントの創業まもない1973年、たまたま仕事先で出会った取引先にいた当時24歳の若者に惚れ込んだ。それがトニー・ローこと、羅祥安CEO(取材当時)だ。いまで言うヘッドハントを試みた。職人気質で口数の少ない会長と、スキンヘッドで外交的なCEO。その後、40年にわたって凸凹コンビを組むことになる。

羅祥安は、劉金標の招きで台中の本社を訪ねたときを、こう振り返る。

「駅で新聞を買ったんです。そこに日本のホンダの本田宗一郎社長と藤沢武夫副社長の同時引退のニュースがトップで報じられていました。ホンダは台湾でも有名な会社でしたから。劉さんにその新聞を見せて、『この2人は25年間コンビを組んでホンダを大企業に育てた。私たちも25年後に一緒に引退しましょう』と言ったんです。だから、同時引退は私たちの夢でした」

このことは、劉金標もよく覚えていた。

「ずいぶん思い切ったことを言う若者だと感心しました。それからは私が技術や製造の管理、彼が海外販路の開拓やブランディングで責任を分担してやったんですが、25年後は1990年代で、会社はどんどん成長して、あまりに忙しすぎて忘れていましたが、最後に約束が果たせました」

文=野嶋 剛、写真=熊谷俊之

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