未来は技術の蓄積で直線に伸びるのではなく、段差のような状態があると田中は言う。自分が生きている時代が段差だとはなかなか気づかない。この段差はある局面に来ると、需要期とぶつかり、一気にジャンプして拡張する。「後になって、『あの時は次の局面への段差だったんだ』と見えてきて、今に繋がったんだと思うことが増えました」と、田中は言う。
では、段差は誰がどうやって築くのか。田中の原体験がまさにその答えになるだろう。
スタンフォードの学生たちから受けた刺激
81年にKDD(当時)に入社した彼は、84年にスタンフォード大学院に留学している。専攻は電子工学だった。
「日本は当時の雑誌『ポパイ』に象徴されるような西海岸ブームで、かっこいいなという憧れがあったから」と田中ははにかむが、84年はロス五輪が開催され、アップルが初代マッキントッシュを発売した年でもある。
「LANの技術規格であるイーサネットが普及しようとしていたころで、スタンフォードからシスコシステムズが創業したり、ヒューレット・パッカードが計測器からコンピュータ企業に変わろうとしていた時代でした」と、田中は振り返る。何よりも新鮮だったのは、スタンフォードの学生たちが起業する姿だった。
「ビジネススクールに通う学生が、サイエンス専攻のめぼしい学生を見つけてきては、ペアを組んでスタートアップするという流れがありました。そして、レポートを書いて、ベンチャーファンドに見せて資金を調達する。また、東海岸の大手企業から留学してくる者もいたし、授業はテレビカメラでシリコンバレーの企業に中継されて、質問もオフィスから双方向で受け付ける。情報はオープンで、日本ではできない体験が起きていました」
なかでも田中が気づいたのは、「成熟した社会でもイノベーションは生まれる」という事実だった。
「日本でも終戦後、ソニーさんをはじめ、小さな企業がどんどん大きくなっていく過程がありました。でも、僕らの世代が社会人になる頃は、すでに日本は先進国となって社会が成熟していたので、イノベーションを本の知識でしか知らない。だから、社会変革を起こすような大事業とは、大企業が大人数の秀才を集めてきて行うものだという認識になっていました。僕が西海岸で驚いたのは、それを少人数のベンチャー集団が行っていたことです」
少人数でなしえる秘訣は、「すごいテクノロジーや発明というのはレアケース」と田中は言い切る。
「イノベーションを起こすのは、気合ですよ。理念というとカッコいいけれど、気合というのは思いの強さです。そして、そういうことを始めた人間を“変なヤツ”と見ずに、受け入れる土壌と支えるエコシステム。それが成熟社会でもイノベーションを生む。そう思いました」
田中自身、スタンフォードで起業を考えたことがある。「若かったから」と苦笑するが、教授の一言で彼は断念したという。
ある日、自分でつくったソフトウェアを教授に見せたときのことだ。教授は田中が書いたソースコードを見ると、田中の顔を見てこう言った。
「きみのソフトウェアは美しくないね。動くけど、美しくない」
田中は教授の評価を聞きながら、まるで「きみはバカじゃないか?」と言われているような気がしてならなかった。
「美しいという概念が私にはありませんでした。日本で受けてきた教育は、動かすことに重点を置いたものです。他の人が使いやすくなるように拡張を容易にすることなど、教えられてこなかったし、私にはわからなかったのです」
自分にできることは何か。この四半世紀前のアメリカでの原体験が、10年、KDDI社長就任後、「∞Labo(ムゲンラボ)」に繋がっていく。
「それなりに大きな事業会社なんだから、損得抜きで支援する立場だよね。日本の場合、我々のような会社がハンズオンでヘルプしないと」と、技術系ベンチャーへのシーズレベルでの投資や起業家育成、事業提携を行い、「社会にインパクトのある新たな価値を創出しよう」という試みである。
田中が社長に就いた10年、もう一人の社長が誕生した。合同会社ホワイトスペース・ジャパン。のちにispaceと改名する企業を設立した、当時31歳の袴田武史である。
【後編は2月22日公開】