篠原は2013年にテンプスタッフの持ち株会社のテンプホールディングスの会長職に退いた。昨年の同社の売上高は45億ドル(約5,100億円)。ここ1か月ほどで株価は11.5%の上昇となり、同社株の25%を保有する篠原の資産額は10億ドルを突破した。フォーブスはテンプホールディングスの広報担当者に、篠原の保有株式数を確認した。
アジアの女性起業家で資産10億ドルを超えているのは現在26名で、篠原以外のメンバーは中国や香港の人々だ。韓国やシンガポールの女性起業家で、資産10億ドルを突破した者はまだ現れていない。
篠原の人生は苦難の連続だった。1934年生まれの彼女は第二次世界大戦のさなかに育ち、8歳の時に学校の校長だった父を亡くしている。母は助産婦の仕事をしつつ彼女を育て、シングルマザーとして生きることを選び、再婚はしなかった。篠原は高校を卒業後、ごく短期間の結婚生活を経て離婚。日本を離れた篠原は1960年代にはイギリスで、後にオーストラリアで秘書として働いた。
1973年に東京に戻った篠原は、広さ約24平方メートルの質素なアパートで人材派遣会社を設立した。事業は最初のうちは順調に進まず、夜は英語教師のアルバイトで生計を立てた。5年後にようやく、事業は軌道に乗りはじめた。
テンプスタッフの事業は当初から、日本社会に横たわる女性の社会進出の問題を念頭に置いていた。日本ではかつて、女性は結婚したら仕事を辞めるのが当たり前で、高スキルの女性でも仕事を続けることは難しかった。
高齢化でさらにビジネスチャンスが拡大
篠原は当初、女性のみを採用して会社を運営した。しかし、その後売上の低下に直面した。「現在ではそういった傾向は弱まりましたが、当時の女性社員らはあまり外に出たがらず、新規のビジネス開拓にも意欲的ではありませんでした。保守的なスタンスが強く、新たな売上を生むより既存の売上を維持する傾向がありました。それは健全な状態とは言えません」と2009年にハーバード・ビジネス・レビューの取材で篠原は述べている。
80年代の後半になり、篠原は当時のマネージャー陣の心配をよそに、女性よりも男性を多く採用し、職場のバランスを改善し売上を伸ばす試みを始動した。