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2016.12.11 09:00

ダイソン躍進の秘密 失敗を記録する「黄色と黒のノート」


ダイソンは英北東部ノーフォークの沿岸地域で、3人兄弟の末っ子として生まれた。幼い頃から、いったん決めたらやり抜く性格で、立ち直りが早かった。

9歳のときに父親を亡くしてから、ダイソンのがんばりが始まった。オーケストラで最も難しいと聞いたにもかかわらず、ファゴットに取り組んだ。14歳で陸上競技を始めると、朝6時に起きて砂丘を駆け上がり、真夜中過ぎまで2時間走るトレーニングを続けた。

ロンドンのバイアム・ショー・アート・スクールに入学したダイソンは、そこで後に妻となるデアドラと出会った。その後、学士号もないのにロイヤル・カレッジ・オブ・アートの大学院課程に入ることができた。

そして、在学中に斬新なアルミ屋根のデザインを開発したのがきっかけで、同じような屋根を製造していた高名な発明家のジェレミー・フライと出会うことになる。二人はたちまち意気投合し、やがてフライに誘われたダイソンは彼の製造会社ロトークに入社した。そこで同社初のシートラック(上陸用高速艇)の設計にかかわり、世界中の軍隊に売り込んでいく。シートラックは1973年の第4次中東戦争でエジプトの対イスラエル戦に使用された。

ダイソンは仕事の傍ら、築300年の農家を改装していた。そして、改装作業でセメントを運搬しているとき、初期の有名な発明となる“現代風の手押し車”の 「ボールバロー」をひらめいた。車輪の代わりにボールを使えば重量が均一にかかるので、柔らかい土でも食い込まないのだ。

ダイソンは74年に退社し、銀行融資と義兄から借りた資金を元に事業を起こし、ボールバローの開発に取り組んだ。ところが2年後、金利がかさんで負債が27万ドル以上になったため、他の発明家に持株の33%を売却するはめに。発明のために借入金を増やしたいダイソンと、負債返済を最優先にしたい出資者たちとで意見の対立があり、結局、ダイソンは79年に社を追われた。

しかし、ダイソンはこの事業で“あるプレゼント”をもらっていた。ボールバローには赤い塗料を噴霧していたこともあって、工場の装置には塗料が積もっていた。追い出される直前、ダイソンは工場の天井に工業用高速回転式ファンを設置し、積もった塗料などを吸い上げようと考えた。

高速回転式ファンの動きを見た彼は突如、ひらめいた。その頃、自宅ではフーバー社製の掃除機を使っていたが、紙パックがゴミで目詰まりして吸引力が落ちることに困っていた。家に駆け戻るや、掃除機の紙パックを引きちぎり、工場に取りつけたのと同じような装置をダンボールで作って掃除機にはめこんだ。すると、がぜん吸引力が回復したのだ。こうして、ダイソンはサイクロン掃除機を作って売り出すことを決めた。

「黄色と黒のアイデア・ノート」

ダイソンと前出のフライはそれぞれ、5万3,000ドルずつを出資。数千時間と多額の資金を注ぎ込み、製作した試作品は5,127個にもなった。その間、彼の妻はヴォーグ誌にイラストを描いたり、静物画を教えたりして家計を支えた。

そして83年、ついに紙パックを使わない掃除機が完成。内部のサイクロンが時速924マイル(約1,487km)で空気とホコリを分離するので、タバコの煙を空気中から除去できるほど強力だった。彼は負債返済のためにその技術をライセンス供与することにした。2年後、最初の大手顧客との契約が成立する。日本企業のエイペックスが7万8,000ドルを先払いし、10%のロイヤリティーを認めるという条件に合意したのだ。

ダイソンは自社ブランド製品を出したくてうずうずしていた。そこで、日本の企業との取引で得たキャッシュと100万ドルの銀行融資を使って93年に黄色と銀色が特徴のデュアルサイクロンを世に出した。この掃除機は競合製品の倍の300ドルという高値にもかかわらず、大ヒット。イギリスで最も売れた掃除機となり、97年に売上高16億ドルを達成した。

日々の経営から退いて発明に専念するようになった98年、ダイソンはケント大学から博士課程の学生5人をリクルートし、ロボット掃除機の開発に当たらせた。彼が納得する掃除機が完成するまで数年の歳月がかかり、試作品も1,000基以上作られた。ちなみに、最初のモデルは技術的な壁とコスト高で断念している。
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翻訳=中島早苗

この記事は 「Forbes JAPAN No.29 2016年12月号(2016/10/25発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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