私自身がクリントン支持だったので、その言い訳のためというわけではなく、フォーブスという米系メディアへの寄稿だからと気をつかっているわけでもなく、結果的にメディアはその正義感から予想を外してしまったという側面もあるのではないか、とふと思うのだ。
昔話になって恐縮だが、小学生のひと時米国の西海岸で過ごしたことがある。3回ほど引越しをしたのだが、うち2か所は白人の比率が比較的高いエリアで、1か所は白人以外の比率が高いエリアだった。
後者では公立小学校の1クラスの人数がとても多く、複数曜日の登校時間を早いグループと遅いグループとわけて授業を実施していた。グループ分けに際しては、事前に生徒に希望時間帯を尋ねていた。ただし、特定時間帯への希望が多ければ学校側で決めるとの附帯条件付きだった。
後日、蓋を開けてみると、早目のグループは全員白人、遅目のグループはそれ以外と見事に分かれていた。私自身は早目の時間帯を希望したが、当然、遅目のグループへ。子供心にここまで露骨な分断をするのかと唖然とし、憤慨もしたのだった。
しかもタチが悪いのは、この決定プロセスには、私に寸分の抗議の隙を与えない周到さがあったことだ。つまり、1)希望は少なくとも聞いた、2)希望が多ければ裁量権は学校側にあることも知らせた、ということになる。
さらに、それ以上に厄介なのは、3)結果的に白人以外が集まったグループであなたは不当だと言うが、一体何が不満なのか。白人の中に入れないからと文句を言うあなたこそ差別的なのではないか、というぐうの音もでない論理で外堀が埋められていることだ。
これが、今でこそリベラル派の象徴とされる西海岸の1970年代のリアルな一面(全体像とはいわないが)である。
50〜60年代の公民権運動を経てようやく平等や人権擁護の発想が出てきたが、潜在的な差別意識は非常に根強い時代。だからこそ、それを覆い隠して、少なくとも差別のない世界を目指すべきとの強い意識が働いていたのもまた事実で、幸いにして、私の場合、どの学校にいてもヘイトクライムを受けるようなことは殆どなかった。
薄氷の上を歩くように辛うじてキープされていた人権意識の中で、何故さほど不愉快な思いもせず過ごせたのだろうと今さらながら振り返ると、そこにはいつも目を光らせてくれていた“ヒラリータイプ”の女の子がいた。白人の中産階級で、リベラルな保護者の元で育った優等生のブロンドの女の子が、少しでも不穏な空気を察すると(人権問題以外でも)毅然と正論を振りかざして抑制してくれたのだ。
所詮、子どもの日常、取るに足りない些細な事の連続ではあるのだが、そんなシーンはいくらでもあったように記憶する。正論だけれど時に疎ましいと思われていただろうな、とも。
あの頃に比べれば“氷”の厚みが少しは増したにしても、その下の強烈な差別意識を冷静に認識しているからこそ、何はさて置き、「国民間の差別を際立たせ、分断させるような候補者は同義的に許してはいけない」という作用が、米メディアに働いたのではないだろうか。
メディアの矜持を保とうとすればするほど、クリントン支持に傾倒するのもわからなくもないし、国民の潜在意識の強さや深さも、強烈に感じる選挙結果だった。