東レの岐路
斜陽産業と思われていた繊維業界にあって好調な業績で眩まばゆい化学繊維メーカー、東レ。しかし、いまから25年以上前、同社は岐路に立たされていた。
1987年、バブル経済による好景気を実感し始めていた世間とは逆に、東レは業績が急速に悪化していたのだ。そこで、当時の伊藤昌寿会長と前田勝之助社長は「東レ流のリストラ」を断行する―。彼らが今日の収穫につながるタネをまいた背景とは? 1987年7月の記事をご紹介しよう。
東レといえばいまや押すに押されぬ日本の一大企業であるが、1987年当時円高や海外の安価な資材の流入により岐路に立たされていた。こうした危機に直面する多くの企業幹部が労働力の安価な海外へ工場を移転することで難を乗り切ろうとするなか、東レのトップがとったのは超日本的な「リストラ」と技術面の強化であった。
欧米のように突然の解雇通達はせず、2万5000人の正社員の半分以上を再訓練した後に子会社や拡大中の部門に異動させ、配置変換によっておきた減収分は東レが補填した。加えて、海外では株主から圧力がかかることの多い研究開発費に糸目をつけず独自の技術を開発し、さらに生産ラインを細分化し各リーダーが率いる事業部制にしたことでR&Dとマーケティングをチーム内で効率よく行うことに成功した。
極めて日本的な方法で1990年代にかけて突破口を開いた東レの快進撃は、現在の繊維業界にとどまらない最新技術を提供する同社の基礎となっている。