国連の日本人ナンバー2が語る、「世界の不条理」に私が教わったこと

国連事務次長補/国連開発計画総裁補/危機対応局長 中満 泉(photo by Aaron Kotowski)


ジュネーブにあるUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)本部で、中満の行動が議論の的となったのは、1992年の夏のことだった。戦火が激しくなる旧ユーゴスラビアに、中満は自ら現地要員を志願して手を挙げたからだ。

国連は、文民の、しかも女性を戦地に送ったことがない。91年、旧ユーゴで始まった民族が四分五裂した内戦は、「民族浄化」の名のもと、結果的に死者20万人、難民・避難民は200万人を超えた。なかでも、セルビア人勢力によるムスリム系女性への組織的レイプは4年間で約2万件にものぼり、凄惨を極めた。

激戦の首都サラエボに行くという中満に、緒方貞子・国連難民高等弁務官(当時)の副官は電話をした。「任意なのか?」。副官は中満が本当に自分の意志で行くのかと心配したのだ。「任意です」。答えにためらいはなかった。

UNHCRに入って、まだ2年半。与えられ肩書きは、首都サラエボのUNHCR事務所所長代行。このとき、彼女はまだ29歳だった。

女性スタッフ第一号のサラエボ入りは、15キロの鋼板入りの防弾チョッキとヘルメットを装着することから始まった。中満を乗せた軍用貨物機は、砲撃戦が激しいサラエボの空港に着陸しなければならない。急降下着陸。爆音。砲弾の地響き。彼女を出迎えたのは、まさに本当の戦場だった。

現地での任務は、連携する国連防護軍と人道援助活動を遂行するため、方針を立てて、軍にアドバイスをすることである。また、交戦中の各勢力の司令官、前線の兵士、分断された現地の当局者たちとの交渉も、彼女の任務となる。

電気、水道、ガスを止められた市内で、シャワーも浴びられず、雑魚寝の日々を送っても苦にならなかったが、もっとも忘れられない出来事は? と問われたら、彼女は翌93年に赴任した旧ユーゴの激戦地モスタルでのことを挙げる。

彼女がモスタルのUNHCR事務所に所長として就任したとき、事務所は異様な空気に支配されていた。事務所の周りを、銃を手にした黒装束の男たちが10人も20人もたむろして取り囲んでいる。朝から晩まで毎日だ。連中は民兵だった。軍と一緒になって、ナチスのユダヤ人狩りを彷彿とさせるイスラム系狩りを行っていたのだ。中満が言う。

「クロアチア系の組織にとって、国連はイスラム教徒を助けに来たと思われていて、面白くないわけです。モスタルの町の中心をネレトヴァ川という川が通っていて、川の東側がイスラム系、西側をクロアチア系が支配しました。西側に残されたイスラム系の市民を追放するために、夜な夜な軍や民兵が民家を訪ね、『身分証明書を出せ』と言うのです。男性は強制収容所に連行され、女性と子どもは東側に追放されていました」

このとき、支配地区から他民族を追放するために、心理作戦として行われていたのが、レイプだった。上官の命令により、若い兵士たちが民家に押し入り、女性を暴行する。かつては同じ学校に通った顔見知りのケースもある。尊厳を奪い、傷つけ、そして「土地に居座るなら再びレイプする」と家族に通告して去っていく。

恐怖心を植え付ける徹底した作戦で、前述したように信じがたい数の女性が犠牲となった。女性だけではない。ボスニアの強制収容所には、あばら骨が浮き、頬がこけた男たちがぎゅうぎゅうに押し込められ、人格を崩壊させる作戦として、収容者同士の性行為が強制された。

かつて平和に共存した多民族社会が、対立を煽る煽動者たちによって、いとも簡単に理性を失い、たがが外れていく。「民族浄化」の凄惨さが国際社会を震撼させたのである。
次ページ > 「この二人を助けてほしい」

文=藤吉雅春

この記事は 「Forbes JAPAN No.26 2016年9月号(2016/07/25発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

タグ:

ForbesBrandVoice

人気記事