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そんなある日、福原はふと気づく。自分が好きなのは、映画そのものではなく、映画がつくられる過程、携わる人々が発するエネルギーなのではないか? 好きだと思い込んでみたものを俯瞰したら、そんな考えに至った。

「『やりたい』と思っていたものが、本当はそうではないんじゃないか、と気づけた。それは大きかった」と福原は振り返る。監督よりも、撮影監督を目指した。

でも、実際にフランスに留学したら想像以上に大変だった。当時18歳。生活するだけで精一杯。「映画」に辿り着く前に、やはり「語学」でつまずく。言語を学ぶなかで、後に福原の仕事に大きく関わることになる「エンジニア」の人々に出会う。ここでもまた、他人の言葉によって福原の人生が動く。

「もっと英語を頑張れば?」。エンジニアの友人が放ったそんな一言をきっかけに、今度は英国に渡る。語学を頑張っても頑張っても、まだ映画に携わることができない。欧州に渡って、3年が過ぎていた。

さて、どうしようか。隣を見ると、美大が目に入った。「すると、そちらが気になって気になって仕方がなくなって」。

セントラル・セント・マーチンズを経て、01年には王立芸術学院(RCA)へ。そこで、初めてバイオアートの存在を知ることになる。父が遺伝の研究をしていたこともあり「遺伝子」は福原の興味のあるテーマでもあった。

目にしたものすべてが繋がる

アートをやりたい、と決めると、自分が“表現したいもの”も見えてきた。高校時代、そして欧州に渡ってから、自分が見てきたものすべてのなかにヒントはあった。

映画を観ていて好きだったのは、物語に没頭してから、現実に戻って行く時の、あの”ぐにゃっとした”感覚。日常が非日常にスイッチする瞬間。いま生きている世界と、もしかしたら存在するかもしれない、もう一つの世界。

「アートを非現実で終わらせない、アートを日常のなかに落とし込みたい。価値観を変えたい」。そんな思いから生まれたのが、先の「亡くなった人の遺伝子を樹木に入れる」というアイデアだ。

こんなエピソードがある。アイデアを発表してからのこと。福原のもとに、一人のおばあちゃんがやってきた。「死んでも埋められないのよね。存在し続けて、成長していくんでしょ。私、死ぬのが怖くなくなったの」。

それだけを言うために、電車を乗り継いで福原のもとにやってきた。「このおばあちゃんのためだけにでも、実現させたい、と強く思いました」

でも、ここから福原の言うところの、”最も辛かった時期”が訪れる。

文=古谷ゆう子

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