驚くのはここからだ。決められた一連の動作をゆっくりと、穏やかに集中しながら行う太極拳の動きに魅了された彼は、その一部問である「推手」を習い始め、数年後には全米選手権を制し、世界選手権で銅メダルを獲得、そして2004年にはついに世界チャンピオンになるのである。
チェスと太極拳。ジョッシュ・ウェイツキンは、この異なる分野でトップを極めたのだ。
これがどれだけ凄いことか考えてみてほしい。たとえて言うなら、囲碁界史上初の7冠を達成した井山裕太棋士が突然、「空手の選手になります」と言って表舞台から姿を消し、4年後に東京オリンピックのメダリストになってふたたび我々の前に姿を現すようなものである。
ここで「天は二物も与えちゃうのか。世の中はなんて不公平に出来ているんだ」などとコップ酒をあおっていては、話は終わってしまう。ヤケ酒をあおる暇があったら、ぜひこの本を読んでほしい。
『習得への情熱-チェスから武術へ-上達するための、僕の意識的学習法』(みすず書房)は、チェスと武術をどのように彼が身につけていったのか、そのプロセスをつぶさに記した一冊。世に学習法について書かれた本は数あれど、ベストは間違いなくこの本だ。読めば必ずやあなたの人生に良き変化をもたらすだろう。それほどのインパクトを持った一冊である。
この本の中でジョッシュは驚くべきことを述べている。チェスも武術も根本の原理は同じで、それを踏まえたからこそ、両方を高度なレベルで身につけることができた。しかもそうやって会得した原理は、他の分野にも応用可能であるというのである。
彼は物事の核心をつかみとる「習得の技法」に長けていた。その結果、チェスで学んだことが太極拳で本質的な気づきをもたらし、太極拳で得たヒントがチェスの難解な問題を解き明かす突破口になるといった好循環が起きる。
異質な分野が互いに影響を与えあい、ジョッシュ自身は加速度的に進化していく。そのプロセスはこのうえなくスリリングで、人間の潜在能力が持つ可能性のとてつもない大きさへと我々の想像をいざなう。
この本の凄いところは、チェスや太極拳に関する深い事柄(我々が「奥義」と呼ぶようなもの)が、実にわかりやすくロジカルに解き明かされているところだ。