クオンツ系金融会社向けのリサーチ会社バーラ(現MSCIバーラ)の社員だったミュラーは、1992年にニューヨークのモルガン・スタンレーの門を叩く。数学とコンピュータを使った取引を自分で行うという志を持ち、自己勘定取引のトレーダーとして入社した。
「自分の生み出したモデルの強さを証明するために、取引では絶対に勝ちたかった」と、当時を振り返ってミュラーは語る。数学を使って取引をするという新参者に対して「どうせ失敗するだろう」という見方をしていたトレーダーたちの予想に反し、「プロセス・ドリブン・トレーディング(PDT)」という名のミュラーのグループは、毎年莫大な収益を上げた。
ミュラーの取引は、損益計算書上には「自己勘定取引」とだけ記されるため、公に知られることはない。当時のミュラーはまさに”モルガン・スタンレーの秘密兵器”であった。
自身の活躍によって、男性ホルモンみなぎるアクティブなトレーダーが行き交うモルガン・スタンレー社内に、カジュアルな装いの”数学オタク集団”の居場所を築き上げたミュラー。彼はその環境で、市場の動きに翻弄されない投資モデルを作り出す作業に打ち込んでいった。
しかし、ミュラーは、自身に課した高いハードルによって、激しく疲弊。やがて社内での裁量が大きくなるにつれて、奇行が目立つようになっていった。対策として、コネチカット州のウェストポートの別宅で仕事をすることにしたが、その頃には状況がさらに悪化。頭の中に数式が溢れ返って、音楽を演奏することすらできなくなってしまった。ミュラーは99年に、長期休暇を取得する決断をした。
ここからミュラーの7年間におよぶ”自分探しの時代”が始まる。長期休暇の間には、ニューヨークの地下鉄の駅で演奏をし、ブータンのような遠く離れた国への旅もした。00年に、ウォール街に戻ったものの、本格復帰せず、ヨガや音楽アルバムの制作に取り組む日々を送った。
こうした期間を経て、やる気を取り戻したミュラーは、06年にフルタイム勤務へ復帰。ただ、07年には不幸にも、クオンツ・ショックが発生し、多くの金融機関が大打撃を受けた。ミュラーもポートフォリオの一部の売却を余儀なくされ、「モルガン・スタンレーの星も大打撃:音楽にうつつを抜かし、余裕無し」という見出しでウォール・ストリート・ジャーナルの一面を飾ったこともあった。
ミュラーにとって、転機が訪れたのは08年。リーマン・ショックをきっかけに、モルガン・スタンレーという一つの資金供給元に依存しすぎることの危うさに気づいた。その上、金融危機は銀行に規制を課す流れをつくり、ミュラーのように自己勘定取引を行うトレーダーが銀行に勤務することができなくなる「ボルカールール」の施行につながった。
その結果、ミュラーは数年におよぶ協議の末、モルガン・スタンレーからの独立を決めた。