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ハミルトンの肖像が残ったことは、(私も含めて)アメリカの中央銀行史の研究家の間では、「よかった!」という感想を持つ人が大多数である。ジャクソンは、金本位制信奉者であり、「第二合衆国銀行」(The Second Bank of the United States)というアメリカの二度目の中央銀行の免許更新に際して、1832年に大統領拒否権を行使して潰してしまった張本人だからである。

ジャクソン大統領は、当時、中央銀行として力をつけてきた第二合衆国銀行を「怪物(Monster)」と呼んで全面対決した。金や銀の裏づけのない「不換紙幣(fiatmoney)」を嫌っていた人が、中央銀行発行の紙幣に肖像として登場していたのは”歴史の皮肉”だった。

免許更新を拒否された第二合衆国銀行は36年にその営業を終えて、アメリカは、中央銀行のない世界へと逆戻りする。それから、1913年に現在の連邦準備制度ができるまで、アメリカには最後の貸し手として機能できる中央銀行が存在せず、州法や国法に基づいて設立された銀行が、国債などを担保に差し入れて発券認可をもらって銀行券を発行していた。

話の舞台は突然、明治維新後の日本へ飛ぶ。明治政府は初期の段階で、欧米に使節団を送り、各種の制度、技術を持ち帰り日本経済の発展の基礎を築いたことはよく知られている。

銀行制度についての使節は、1870〜71年にアメリカに派遣された、当時大蔵少輔(次官)の伊藤博文。そこで伊藤が見たのは、国債を担保に差し入れて民間の多くの銀行が発券銀行になるという「国法銀行」制度であった。

日本にその制度を持ち帰り、「国立銀行条例」を制定したのが、72年(明治5年)。つまり、明治政府は、最初から「中央銀行」を設立したわけではなかった。日本版国立銀行では、民間銀行が金貨兌換(の用意があること)を条件に発券を認められるというものであった。

最初に設立されたのは、第一国立銀行である(東京、73年営業開始)。その後、74年までに、第五国立銀行(大阪)、第四国立銀行(新潟)、第二国立銀行(横浜)が営業にこぎつけている。兌換貨幣準備に対する発券許可額の比率が低いという発券条件が厳しく、銀行設立も銀行券供給もなかなか進まなかった。

ちなみに、第四銀行が、設立名称のまま現在まで営業を継続、日本銀行よりも古くに設立された最古の歴史を持つ民間銀行である。

政府の思惑どおり貨幣発行高が増えないなかで、国立銀行条例は76年に改正されることになった。骨子は、銀行券の裏づけとなる担保の範囲を利付国債を含む公債に拡大して、事実上兌換貨幣準備に対する発券許可額の比率を高くした。こうして、国立銀行設立の利益が増したため、79年末までに153行が設立された。

文=伊藤隆敏

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