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2016.06.29 18:00

世界初のソフトウェア・プログラマー、エイダ・ラブレスの偉業

Photo by Peter Macdiarmid/Getty Images

科学の歴史をひもとくと、数十年、数百年先の世界を正確に見通していた“革新者たち”の存在に気づく。なぜ彼らには未来が見えたのか。稀代の科学ライターが、その謎に迫る。

1835年7月8日、ロンドンの郊外でウィリアム・キングという名の男爵が、小さな結婚式を挙げた。会場となったのは、かつて小説家のヘンリー・フィールディングが所有していた屋敷。現存する資料によると、式は和やかな雰囲気のなか執り行われたようだが、キングの爵位や一族の富を考えると、驚くほどささやかなものであった。

結婚式が内輪で行われたのは、美しく才気あふれる19歳の花嫁、オーガスタ・バイロンに、世間の注目が集まっていたためだ。悪名高きロマン派詩人、ジョージ・ゴードン・バイロン(編集部注:代表作に『ドン・ジュアン』など。ヨーロッパを広く旅し、数多くの女性と関係を持ち、淫蕩な生活を送った)の娘であり、現在はミドルネームの「エイダ」で知られる女性である。

バイロン卿は当時、すでに没後10年が過ぎていて、そもそも娘とは赤ん坊のときに会ったのが最後。それでも、彼の卓越した創造性と退廃的な道徳観は、ヨーロッパ諸国の文化に強い影響を残していた。当時、いわゆるパパラッチは存在しなかったが、エイダの知名度の高さを考えると、結婚式はある程度、内密に行われる必要があったのだ。

短い新婚旅行のあと、エイダと夫ウィリアムは、ロンドン郊外のオッカムにある男爵家の領地と、イングランド南西部サマセットにある別邸、ロンドンの屋敷を行き来する生活を始めた。3つの住まいを維持するという、うらやましい苦労はあったものの、基本的にはのんびりした家庭生活だった。1840年になるころには3人の子どもをもうけ、キング男爵はビクトリア女王の戴冠を機に「伯爵」の位を授けられた。

ビクトリア朝社会の一般的な価値基準からすると、エイダは女性なら誰しも憧れる人生を送っているように見えただろう。貴族という地位に、愛情深い夫、(男子の跡継ぎを含む)3人の子どもたち。しかし、母親としての務めを果たし、屋敷や領地の管理にあたる日々を送るなかで、エイダは心にモヤモヤを抱えていた。そして、自分がビクトリア時代の女性にとっては前代未聞の生き方に魅かれつつあることに気づいた。

断っておくなら、当時、女性が芸術的な創作活動に携わることは、決して不可能というわけではなく、小説やエッセーの執筆をたしなむことも可能だった。しかし、エイダの心は別の方面に惹かれていた。-彼女は数学への情熱を抱えていたのだ。
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スティーブン・ジョンソン=文

この記事は 「Forbes JAPAN No.23 2016年6月号(2016/04/25発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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