日常レベルでの教えとはどういうことだろうか。たとえば『論語』の「郷党第十」にこんな一節がある。
「席不正不座」(席正しからざれば、坐せず)
なんだか重々しく感じられる一文だが、本書ではこう訳されている。
「敷物が乱れていれば、真っすぐに整えてから座った」
英文からの日本語訳だと、ぐっとわかりやすい。こんなふうに私たちにとって身近な言葉で語られるため、中国哲学のエッセンスが自然と頭に入ってくるのだ。
ただ、これを見て拍子抜けする人もいるかもしれない。『論語』は人類の歴史のなかでもきわめつけの名著とされているのに、書かれているのはこんな当たり前のことなのかと。
そうなのだ。『論語』に書かれているのは、日常の中での孔子のふるまいやことばの数々で、西洋哲学にみられるような大上段に振りかぶった壮大な問いは一切出てこない。だが、これこそが孔子のすごさなのだ。西洋哲学が掲げるような大問題から始めるのではなく、孔子はごく基本的な(しかし実は深遠な)問いから始める。それは「きみは人生を日々どう生きているか」という問いだ。
西洋倫理学の有名な問いに「トロッコ問題」がある。
トロッコが暴走する線路の先が分岐していて、一方には5人の作業員が、もう一方にはひとりが横たわっている。あなたはポイントを切り替えることができる。5人を救うためにひとりを犠牲にするのははたして許されるだろうか。絶体絶命の状況のなかでどうするのが正しいかを考える思考実験だ。
この問いに対するマイケル・ピュエット教授の答えは「考えても意味がない」。そんなゲームに興じても、日々の生活にはなんの役にも立たないからだ。そんなことよりもむしろ、古代中国の思想家は、日常のささいなことに深い意味を見出す。
たとえば私たちは日常のさまざまな場面で、会う人によって挨拶を使い分ける。親しい人にはくだけた調子で挨拶し、初対面の人とはかしこまった挨拶を交わす。この一見当たり前なことを孔子は哲学的に掘り下げた。人間が日常の大半をこうした行為に費やしているのであれば、思想もここからスタートしなければならないと考えたからだ。ここから孔子の思想のキー・コンセプトであるやが生まれてくる。
先に述べた「乱れていた敷物を整えてから座ること」にも深い意味がある。いっしょに座る人のために敷物を整えるというささいな行為によって、普段と異なる環境が作り出され、その場にいる人に大きな影響を及ぼしうるからだ。教授は、夕食のテーブルを整えるだけで、いかにストレスまみれの一日から人々の気分を変えられるかと実にわかりやすい例で説明してみせる。
「世界を変えたい」と大志を抱くのは若者の特権だが、そこまで大それた望みでなくても、人生をより良い方向へと変えたいと願う人は多いはずだ。
そんな人々に向けてマイケル・ピュエット教授は語りかける。人生も世界も変えられると。ただし変化の第一歩は、日常のささいなことから始まるのだと。
だからあなたも明日からさっそく始めてみてはどうだろう。
朝目覚めたら家族に挨拶をする。いつもより丁寧に朝食をつくる。ゆっくりとお茶を飲む――。
その先にあなたのより良い人生が待っているかもしれない。
『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』
マイケル・ピュエット、クリスティーン・グロス=ロー著(早川書房)