彼らが装着しているのは、ヘッドマウントディスプレイと呼ばれる装置で、これを身につけると、眼前に映像が映し出される。動きに合わせ、自身の周囲360度の様子を見ることができ、あたかもその場にいるような感覚を味わえる。
映像は約5分間。電車の中で居眠りから覚めた時、自分が今どこにいるのか、どこに向かおうとしているのか、どこで降りたらいいのかわからなくなってしまったというシチュエーションを体験する。
このVRプロジェクトの目的は、認知症を理解するためだけではない。当事者が何に困っているのか、それを防ぐために何が必要なのか、どんな支えや助けがいるのかを考えるための仮想体験でもある。つまり、その人たちが見ている世界を知ることで、自分たちのするべきこと、あるべき姿を考えるプロジェクトである。
参加者の一人はこのVR体験直後、「認知症の体験として参加したけれど、自身が上京したときに体験したことと全く同じだった」と語った。
言葉の通じない海外で道に迷ったとき、道を訪ねても答えがよくわからないとき、見当違いな答えが返ってきたとき、誰にでも同じような経験があるはずだ。
人は誰しも混乱する環境においては、通常と違う行動をしてしまう。それは認知症であろうとなかろうと同じだ。たまたま、それが認知症の場合、たとえば「徘徊」や「興奮」という言葉として解釈、理解されてしまう。その結果、その「徘徊」の裏にあるその人の不安や恐怖に思いを馳せることにまで辿りつけないこともあるだろう。
このプロジェクトに参加していた『私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活』(ブックマン社)の著者である樋口直美さんはいう。「健常者と認知症は地続きなんです」
そんな樋口さんが望む社会のあり方はこうだ。
・認知症であろうとなかろうと、人が誰でも尊厳をもって幸せに生きることができる社会
・障害があろうが、病気であろうが、誰もが生きやすい社会
・その人らしく生きられる社会
そのために、まず私たちにできることは、その人の状況を知ろうとすること。そして、「困っていること」があるのなら、それを可視化するということ。その一助となるのが、VRをはじめとした最新技術だ。その意味において、テクノロジーが映し出す未来は明るい。
ただ、先の樋口さんはいう。「何が起こっているのかわからなくなる時の恐怖、自身の情けなさ、それはまさに崩れていきそうな衝撃である」。そして、「残念ながらその感覚はVRでは伝わらない」。
未来のテクノロジーが、介護現場や社会をよりよくしていくことは間違いない。しかし、私たちはその最新技術だけに頼り過ぎ、人として忘れていることはないか。救いの手を求められているのは、まず、人である自分たちなのかもしれない。