その起業家の新しい挑戦が、東南アジア発「研究と実践を通して、新産業をつくる」。なぜかー。
現在の挑戦の原点となっているのは、諸藤がいまなお、次のような思いを持ち続けているからだ。
「ごく普通の人間で、『世界を変える』という高い志もなく、ただ大企業に行くとリストラされるからと起業した人間が、自分の想定以上に事業がうまくいった。それがなぜだか知りたい。伸びるマーケットにたまたまいただけなのか、先天的に向いている部分があったのか。成功すると目線が上がり倫理観や社会貢献への思いが出てくることは感覚的にわかっていたので、その“なぜ”の答えを知りたかった」
15年11月末、シンガポール中心部にあるリープラ本社。オランダ、イギリス文化と中国文化がミックスされた、シンガポールの伝統的な「プラナカン」様式の多彩なその建築物に象徴されるように、多種多様な経歴をもつ十数人の日本人が集った。
シンガポールやバングラデシュ、ベトナム、ガンボジア、日本など事業展開地域も、また医療事業、株式運用事業、ホテル業、農業、教育事業、デジタルマーケティング支援事業など事業領域も、そして20代から40代といった年齢も、連続起業家をはじめ経歴も様々な起業家たちだ。
彼らの共通項は、リープラ・グループ企業の創業者ということ。その中心にいるのが諸藤と松田である。グループ企業13社が一堂に会した集まりは今回がはじめてで、各社がそれぞれのビジネスモデルを発表した。その場には、新産業創出という壮大な挑戦に挑む日本人たちの熱気があった。
なぜ、3年で30社なのかーと諸藤に問うた。それに対する彼の答えは次の通りだ。
「東南アジアという成長市場の中、新しい産業になると仮説が立つ事業領域を、数多く事業化すれば1個か2個大きくなるかもしれません。そうなれば、産業創出につながる共通の必要項目があぶり出されるのではないか、という仮説があるからです。1つの事業領域だけでホームランを狙いにいくのはリスクが高く、そんなに甘いものではありませんから。
実験的な取り組みのため、当面は外部資本を入れず、機動的に動けるように自己資金で各社に300万ドル。地元の起業家が参入しにくく、大企業の目にとまらない(1)比較的資金が必要、(2)発想できない、(3)ファイナンスできない事業に対し、それぞれ“ビジネスモデル”ではなく“事業領域”に張っていく。そして、市場価値をつくった後に、外部資本を入れていく方針です。
僕自身が個人で社会的にインパクトを与えたいわけではなく、“ゼロからイチ”が生まれる仕組み、世の中の複雑性を構造的に知ることが好きだから、ビジネスの領域で“研究”と“実践”を繰り返して、産業のつくり方が知りたいということに辿り着いた。それができれば、自分が運良く得た資産を投資して、たとえゼロになっても後悔はしない-と」
諸藤がエス・エム・エス時代、5年をかけて後継者を探す過程の中で、“ゼロからイチ”を生む経営者・起業家像についてもある仮説ができたという。