※2014年9月号に掲載された記事を紹介しています。
震災から3年たったいまも、東北の風景は変わっていない。しかし、目に見えない変化があちこちで連鎖反応を起こしていた。
人が人を巻き込むかたちでその輪は広がり、30代の彼らはみなこう言うのだ。「東北から日本を変えよう」
東北の被災地で、企業の創業が増えているのをご存じだろうか。
復興需要で土建業が増えたわけではない。仙台市の産業振興課長だった品田誠司(現・仙台市まちづくり政策局)は、起業動機の変化に着目する。
「震災前は、自分の能力を生かしたいという理由が目立ったのですが、いまは2つの傾向があります。地域に貢献したいと外から被災地にやって来る人。もうひとつは、『2日間、首まで津波の水につかって浮き続けて、死生観が変わった』など、人生観を動機とするタイプです」
しかし、被災地を歩けば、津波で破壊されたままになっている老人ホームや、荒れた草地と化した元住宅地など、震災の爪あとは3年たったいまも生々しい。起業が増えたといっても、何も変わっていないじゃないか。そう疑う人に、次の声を紹介したい。起業した30代の青年はこう言うのだ。
「地図にない、もうひとつの日本をつくっているんです」
東北から日本の仕組みを変えよう――。そんな熱意を持つ点と点が、あちこちでつながり始めていた。
グーグルが始めた“御用聞き”
話は3年前にさかのぼる。アメリカのグーグル本社でグーグルマップを統括する河合敬一は、悩みを抱えていた。仙台市出身の河合はグーグルの有志でボランティアチームをつくり、震災直後から被災地を回った。しかし、2カ月ほどたったころのことだ。
「瓦礫が撤去されて、電気や水道が復旧すると、商店街の方々から『取引先がなくなって、商品が売れなくなった』と言われるようになりました。物流が回復したら、その間に取引相手が調達先を変えてしまったのです」
河合たちに、「ネットで商品を売ってもらえないか?」と相談する事業者もいたが、グーグルは楽天ではない。「復興の次のステップって何だろう」。河合たちはその答えを見つけることができないまま、「ホームページの作り方講座」などを細々と続けた。
あるとき、河合はふと思った。ヘドロ撤去を手伝いに来た都会の人が、ふだん肉体労働をしたことがないせいか、くたびれはてて地元の人に励まされている。この人には、もっと役に立てる得意分野があるはずじゃないのか。その問いは、彼自身に跳ね返る。グーグルはインターネットの会社じゃないか、と当たり前のことに気づいたのだ。
「インターネットは距離を超えます。グーグルが最も得意なことは、場をつくることです。被災地で頑張っている人を、日本中の人たちとつないで助けられる、と気づいたのです」
被災地のニーズに応えられる技能を持った人を、「サポーター」として集めて、グーグルがコーディネーターとして被災地の事業者につなぐ。マッチングのネットワークである。河合たちはマッキンゼー出身の藤沢烈が組織した「一般社団法人 RCF 復興支援チーム」と組み、被災地を回った。「何か、困ったことはないですか」と、御用聞きを始めたのだ。
サポーターは全国から集まってきた。webデザイナー、中小企業診断士、建築士、レシピ専門家、経営コンサルタント、エンジニアなどさまざまな職業の人が名乗りを上げる。こうして、復興支援事業「イノベーション東北」が始まったのだ。
1年後、新たに見えてきたのは、被災地に限らない日本の課題であった。
20代の矢本真丈は、大手商社に就職してカザフスタンでエネルギー事業に携わっていたが、退職して「イノベーション東北」事務局のメンバーとなった。
矢本が東北で直面したのは、レガシーと呼ばれるような古い産業である。「グループ補助金をご存じですか」と、矢本が言う。
「被災地の事業者がグループで国に補助金を申請するもので、設備の再建費用の3分の2を国が補助します。残りの3分の1が自己負担になります。ところが、これで被災した工場を再建して、稼働を始めたものの、売り先がない。工場稼働率は2~3割にとどまり、再建費用の自己負担分を借金として背負い込んでしまうのです」
国が補助金を出せば、問題が解決するわけではない。震災に関係なく、もともと構造的に地方の産業は課題を抱えていた。その問題点が何かをわからない経営者が多いのだ。
日本の地方の課題が凝縮する東北
疲弊する地方の問題を解決するにはどうしたらいいのか。この問題に正面から取り組むことになったのが、NEC本社に勤務する35歳の土屋俊博である。中小企業診断士の資格を持つ土屋は、「イノベーション東北」のサポーターに登録し、昨年末、六本木ヒルズにあるグーグルに足を運んだ。社員食堂で行われたマッチングの説明会には、東北から来た事業者30 社、サポーター120人が集まっていた。いわば、お見合いの場だ。ここで土屋が気にかけたのは、サポーターの誰からも声がかからなかった宮城県・亘理町の「みやぎのあられ」である。
あられメーカーの話は、地味で注目されなかった。何しろ商材が地味なうえ、亘理町は甚大な被害を受けたにもかかわらず、石巻や気仙沼のように注目されることもなく、復興から置き去りにされている。こういう地域の企業こそ支援すべきだと思った土屋は、サポートの手を挙げた。これが土屋に発見をもたらす。
土屋が言う。
「話を聞くと、亘理町をもり立てようとする経営者の考えは真摯だし、商品も県の特産品になる優れたものでした。経営課題を整理して優先順位をつけることに価値があると思い、亘理町を訪ねてみました」
仙台から在来線に揺られて30分。瓦礫が撤去されて何もない空間がぽっかりと広がっていた。その光景を見たとき、土屋は生まれ故郷の長野県で見るシャッター商店街の姿が重なった。
“日本の地方全体の縮図じゃないか”
人口減少により商圏は縮小。みやぎのあられは六次産業化(第1次産業の経営多角化)しているとはいえ、祖父が原料となるブランド米を栽培し、父親と息子が製造と販売を行う家族経営だ。地方の小さな商店の問題点を、土屋はこう指摘する。
「農業が大変なのは、作業上、その地域に縛られてしまい、会社経営に必要な情報やノウハウを得る機会がないことです。そもそも、そうした経営相談をできる人が周囲にいません。そこで、過疎地と首都圏をシームレスにつなげられれば、地方のデメリットを解消できるはずです。例えば、中小企業診断士は日本に2万人いますが、そのうち4,000人は東京です。東北はほとんどいないでしょうし、せっかく資格を持っていても幽霊診断士となって資格の無駄遣いをしている人は多い。イノベーション東北がやっているような、つなぐ仕組みを全国に展開すれば、地方の経営者が必要とするノウハウが得られます。今後、都会のサラリーマンや中小企業診断士が、地方の会社経営を支援できるような時代になっていけば、都市と地方の関係は大きく変わると思います」
そもそも東北には首都圏のマーケットでも十分通用する商材があるのに、埋もれているケースが多い。邪魔をしているものに、地方特有の閉鎖性がある。人口が減り、経済が立ちゆかなくなっても、現状維持を崩したくなく、新しいものを拒むのだ。
中小企業診断士の塩塚俊介と黒川敦は東京の会社員で、「イノベーション東北」のサポーターになった。ふたりがサポートするのは、青森県に近い岩手県・洋野町で海産物問屋を営む「ひろの屋」である。洋野町は、NHKの連続テレビドラマ「あまちゃん」に登場した「南部もぐり」で知られ、天然のワカメ、ウニ、ホヤが特産品だ。「ひろの屋」は、下苧坪之典が4年前に創業。直後に震災にあったが、いま「北三陸世界ブランドプロジェクト実行委員会」をつくり、地域ブランドを創出し、世界を目指している。
塩塚が言う。
「下苧坪さんの商品は、天然にこだわった高級商品で付加価値が高い。しかし、地域をブランド化して世界進出を目指す下苧坪さんの革新的な考えを、当初、地元で冷ややかに見る人もいました。私たちも洋野町を視察したとき、地元の方から『何ができるんだ』とよそ者なので警戒されました。でも、成功すれば、生産が増えて、地元に雇用を生む。だから、成功モデルにしたいのです」
ひろの屋の商品が首都圏で認められると、周囲の目は変わった。そして6月、彼らの「北三陸の食を日本、そして世界に届けるプロジェクト」に対して、キリンの支援が決定したのである。
「東北の宝」の情熱
「イノベーション東北」が支援するものに、社会課題解決型のソーシャル・イノベーションがある。前出の矢本が言う。
「東北に限らず、課題の普遍性が多くの先進国に通じます。インパクトがある事業だし、リスクをとりながら強い情熱を持っていらっしゃる」と言って、「東北の宝です」と紹介するのが、首都圏から被災地に移住して起業したふたりだ。まず、カバーストーリー(28ページ)で紹介した理学療法士・橋本大吾。彼は「介護保険からの卒業」を目指す。
もうひとりは、塩釜市に移住した35歳の小尾勝吉である。小尾も高齢者や障がい者を社会に組み込む仕組みをつくる。小尾の事業は高齢者向けの配食だ。
グロービスで経営を学んだ小尾の「愛さんさん宅食」は、一見、どこにでもある弁当の宅配である。だが、画期的な点がふたつある。
塩釜に次いで、石巻に2店舗目を出したばかりの小尾に話を聞いた。
「人間には飲み込む力と、噛む力のふたつがあります。私たちはその力に合わせた食事を提供しています。病院では安易に点滴ではなくて、その都度合わせた食事を提供していくことによって、常食に戻れる方もいます。しかし、いまの病院はすぐに退院させるケースが多く、在宅では病院の嚥下食と同じレベルの食事を食べられることはなかなかありません。せっかく退院しても、自宅の食事で体調が悪化してしまうのです」
これは、小尾が母親を病気で亡くしたときの体験が発想のもとになっている。
次に、宅配をするのは全員高齢者である。高齢者は働きたいと思って求人案内に電話をしても、「年齢は?」と聞かれて、「60歳」と言った瞬間、電話を切られることが多い。超高齢化社会とはいうものの、現実には老人を受け入れる仕組みができていない。
小尾が仮設住宅に求人の広告を貼ったり、ハローワークに高齢者の求人を出したりすると、老人たちから喜ばれた。しかし、予想しなかったことが起きた。
高齢者が配達をすると、独居老人たちが小尾と会ったときとは違う反応を見せるのだ。
「よお、先輩」。配達する老人が客に声をかけると、同世代の親しみやすさなのか、話が弾む。病院の話、体の話。小尾が言う。
「私たちは絶対、食事は対面で渡すようにしています。
3分以内のご奉仕は無料です。次の配達に支障がない限り、洗濯物を取り込んだり、ペットボトルのふたを開けたり、です。究極的にはお弁当でなくてもいいと思っているんですよ。お客さんが本当に求めているものを聞いて、それを提供していきたいんです」
震災後、小尾は深夜バスで東京からボランティアに通い続けて、起業を決めた。仕組みを構築すれば、ニーズは拡大する一方なので、店舗を展開していっても勝算はあるという。彼はこう言うのだ。
「あの震災で、人生は有限だと感じました。何もかも成し遂げて終わりたいという人は多いと思います」
(以下略、)