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2016.02.25 16:01

時が流れないとすれば/岡ノ谷一夫

imagefactory / shutterstock

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たぶん6,7歳のときである。お風呂に薪をくべる母の背に「僕、いつ死んじゃうの?」と聞いた。死に伴う痛みとか苦しみとかを思い煩ったのではなく、幼いなりに形而上学的な疑問を死に対してもっていたのだ。

母は「おまえが死ぬのは私が死んだあとだから、そんなことまだ考えるんじゃない」と言った。そういう問題じゃないのに、と僕は思ったものだ。

いまのほうがあのころよりずっと死に近いはずなのに、あのころより死について考えることは少なくなった。日々の忙しい暮らしで死はかすんでゆく。それが大人になるということか。人間が死ぬものであるということは受け入れざるをえない。しかし永遠の命のあり方を考えないこともない。母は幸いまだ存命である。僕より元気なくらいだ。

時間の哲学というテーマを聞いて、すぐ思い浮かべたのは最近観た映画『アデライン、100年目の恋』(監督リー・トランド・クリーガー、2015年)だった。あらすじを語るとなんだか馬鹿馬鹿しくなるのだけれど、だまされたと思って観てみて欲しい。

アデラインは、29歳のとき雷に打たれて分子遺伝学的な異常が起き、細胞の寿命を決めるテロメアが短くならなくなってしまう。それから年をとらなくなった彼女は29歳の容貌のまま生き続けるが、周りに悟られないために10年ごとに職場と住所を替えて、他人との関係性をつくらないまま生きてゆく。

ようやくつかみかけた恋も、この秘密のため自分から切り捨てようとする。永遠の命を得ても、社会の中に居場所がないのがどんなに寂しいことか。ともに年を重ねる相手のいることが、どんなに素晴らしいことか。ひしひしと感じた映画であった。これ以上語るとネタバレになるからやめておこう。主人公アデラインを演じたブレイク・ライヴリーが100年にわたる装いとそれぞれの時代の化粧で美しく現れる。

関連して思い出すのは『スカイ・クロラ』(原作・森 博嗣、監督・押井 守、2008年)だ。年を重ねることができない存在にとっては死ぬことが希望であり生きることが絶望であるという逆説的な世界を描いた作品である。平和が実現された世界で、人々の攻撃性のはけ口として無意味な戦いをする役割を背負った人たちがいる。彼らはキルドレ(永遠の子どもであろう)と呼ばれ、思春期を過ぎると成長が止まり死ぬことができない。

何度撃墜されても生き返り、再び戦いに行かねばならない。そのような世界では、快楽も憎しみもすべてぼやけてしまう。愛することがありうるとして、愛するもの同士の唯一の希望はともに死ぬことである。戦闘シーンの轟音ときれいな空、薄ぼんやりと描かれる日常が忘れられない映画である。これもネタバレになってはいけない。このくらいにしておこう。

僕は言語の生物学的な起源を知りたいと思って研究している。僕たちは固有の自己意識をもっている。もちろんそれは、自分自身にしか実感できないことだが、僕たちは他者も同様な自己意識をもっていることを前提に、日々を過ごす。

そのような存在に有限の時間しか与えられないことの不条理感が、僕自身の研究の方向性を決めたと言っても過言ではない。

固有の自己意識をもつのはなぜだろう。過去があり現在があり未来がある、時間の流れを感じるのはなぜだろう。僕たちが言語をもつ存在だから、ではないだろうか。言語は時間の流れをつくり、自分の行動のモデルをつくる。だから言語の起源が理解できれば、自分が有限の存在であることにあきらめがつくだろうと思っていたのである。

しかし年を重ね、自分自身にも子どもができると、有限の存在であることをあきらめるのではなく、受け入れる心が育ってきたようだ。僕はもうキルドレではない。有限の存在も寂しいが、無限の存在も寂しいことがわかった。

ゲーテの戯曲、『ファウスト』に現れる「時よ止まれ、お前は美しいから」という言葉は、有限と無限の双方の寂寥感に通じる。これも言葉に過ぎない。時間は止まらなくても、世界は十分に美しい。


岡ノ谷一夫◎東京大学大学院総合文化研究科教授。心理学の生物学的な研究を進めている。趣味でルネサンス時代の楽器リュートとビウエラを弾く。著書に『つながりの進化生物学』(朝日出版社)など。

編集 = Forbes JAPAN 編集部

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