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ヤフー共同創業者のジェリー・ヤン。ヤフーの取締役を辞めた後は、エンジェル投資家として活躍している。また、スタンフォード大学にも多額を寄付するなど、「アリババ」のIPOで大幅に増やした資産をさまざまな形で生かしている。



世界で最も有名なポータルサイト「ヤフー!」の共同創業者ジェリー・ヤンは経営の舵取りに苦しむなか、「アリババ」という当時無名の中国企業に投資した。しかし、経営責任を問われたヤンは会社を追われ、経営陣はアリババ株を手放すことに決めた―。一人だけ未来を読んでいたヤンは、いま何を思うか。


(中略)「あー、これは何だったかな」と、彼は近づいて日付を確かめる。

 2012年9月。

「それなら私が辞めてからだ。たぶん、私がヤフーでまとめた最後の契約でしょう」
 この記念品は、ビジネス史上最も愚かな経営判断のひとつの「記念」になってしまった。当時、ヤフーの取締役会は、中国の電子商取引最大手「アリババ」の保有株の半数にあたる5億2,300万株を、1株13ドルでアリババに売り戻すことに合意した。ヤンは売却に乗り気はでなかった。しかし結局、売却された。その後まもなく、ヤンは取締役を辞任している。そして、9月のアリババの新規株式公開(IPO)は、世界市場を震撼させた。

 ヤンは台湾の台北で生まれた。2歳のとき、父親が肺疾患で死去。そのため、英語と演劇の教師だった母親がひとりでヤンと弟を育てた。1970年代後半、台湾が中国に併合される懸念が出てきたのを機に、母親は兄弟を連れてサンノゼに移住した。(中略)英語があまり得意でなかったヤンは、数学と科学に傾注した。これが、自作パソコンの開発、さらにはスタンフォード大学で電気工学部に進学するための下地となった。彼は、大学で友人になったデビッド・ファイロと94年1月、ディレクトリサイト「ジェリーとデビッドのWWWガイド」を設立した。そして数カ月後、社名を「ヤフー」に改めた。

 95年、ソフトバンクCEOの孫正義が、ヤンとファイロに会うためにマウンテンビューに寄り道をした。(中略)
 翌日、孫はマウンテンビューに行き、ヤフーの若き創業者たちと一緒にピザとソーダをテイクアウトした。ソフトバンクはヤフーに200万ドルを投資して5%の株式を取得。さらに96年には1億500万ドル、そして98年には2億5,000万ドルを投資し、一時は同社の株式を37%も保有するまでになった。

 その間、ヤンは日本で最初のポータルサイトを立ち上げようとする日本企業から無数の提案を受けていた。孫の最初の投資から1カ月後、井上博社長室長は再びヤンを訪ねた。井上は正式な提案書を用意してこなかったので、じかに彼の意向を伝えた。伝記によると、彼はヤンに「一緒にヤフージャパンをつくりましょう」と誘っている。「2~3人で始めて、必要に応じて人間を増やしていけばいいではありませんか」

 ヤンは、井上が迅速にことを進めたがっていることを気に入り、2人は握手で提携に合意した。翌月、ヤフーとソフトバンクは日本初のポータルサイト「ヤフージャパン」を設立し、ヤフーの検索エンジンを使って、96年4月に営業を開始した。

「日本酒」で勝ち取った契約
 ヤフージャパンが何百万もの顧客を獲得し始めたころ、ヤンは97年に初めて中国を訪れた。同国の対外経済貿易合作部の若い職員が、ヤンを万里の長城に案内する仕事を担当した。彼は名をジャック・マーといい、タウンページの中国版を作る企業を立ち上げようとして失敗した経験を持つ元英語の教師だった。
「ジャックは、私が中国で初めて会った人間のひとりでした」
とヤンは振り返る。この観光中に2人は意気投合し、ウェブの成長について話し合った。

「彼はインターネット事業がどんなもので、その将来性はどうかについて非常に興味を持っていましたよ」
 数カ月後、マーは中国の会社を世界と結ぶという、壮大だがやや漠然とした計画に基づき別の新興企業を立ち上げた。彼はこの会社を「アリババ」と名付けた。

 ITバブル絶頂期だった99年の春、ヤフーは世界で最も人気のあるウェブサイトのひとつに成長し、孫は一時的にビル・ゲイツに迫る富豪となった。それに比べてマーのアリババは、少数の社員が杭州のマーのアパートで仕事をしているだけの取るに足らない存在だった。それにもかかわらず、孫は新規投資先を発掘する定期的な探索の最中にマーを見つけた。(以下略、)

パーミー・オルソン

 

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