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2016.02.21 10:01

堀場雅夫の死後、初めて息子の堀場厚が語る

Atsushi Horiba / photographs by JanBuus


「イギリスまでMIRA社を見にいきたいから、プライベートジェットをチャーターせえ」
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病室のベッドで雅夫が言った。すでに車椅子でしか移動できない体だったが、その日を夢見るように、亡くなる10日ほど前までリハビリを続けたという。堀場は実際にジェット機の見積もりを取った。1週間弱の滞在、専門医の同行を含め、5,000万円程度だったが、父が行けるのならもちろん支払う心づもりだった。

最後の半年間、堀場は年に10回以上はあるという海外出張のほとんどを取りやめ、父の病室に通った。そこでさまざまな思い出話に花が咲いた。子ども時代の話、アメリカ武者修行時代の話、役員会でのぶつかり合い……。ある日、90年代の買収話になったとき、父は息子に「お前は本当に勇気あるな」と言った。「僕にはできひん」。

息子の帰り際には、父は「ありがとう」と必ず言った。見舞いの礼ではない。「自分がつくった会社をこれだけの規模にしてくれてありがとう」の意だ。堀場は「少なからず親孝行ができたのかな」とうれしく思うと同時に、これまでにただの一度も感じたことのない大きな緊張を強いられた。もし業績が急変したり不祥事があったりしたら、父に申し訳が立たない。なお一層日々の決断が慎重になった。
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7月14日の18時。京都市内でのMIRA社買収の記者発表を終えた堀場は、その足で病室へ急いだ。雅夫の意識はすでになかった。医師が「喋っていることは聞こえてますよ」と言うので、無事に終えたことを報告して、夕食のためにいったん病室を出た。すぐに看護師が追いかけてきて、父のもとへと戻った。危篤だった。「ちょっと人前では言いませんけど、父を呼ぶ独特の呼び方があってね。呼んでみたら1回だけ大きく『ハア』と息をしてくれたんです。最後のひと呼吸。親孝行ならぬ、息子孝行の父やなと思って……」

享年90歳。まさに息を引き取る刹那まで、息子に託した会社のことを気にかけていた。

Atsushi Horiba
堀場 厚
1948 京都府生まれ
1971 3月、甲南大学理学部卒業。4月、米オルソン・ホリバ社に入社
1972 9月、堀場製作所入社。米ホリバ・インターナショナル社に出向
1973 9月、米ホリバ・インスツルメンツ社に出向。米カリフォルニア大学アーバイン校(UCI)工学部電気工学科3回生に編入
1977 6月、UCI大学院工学部電子工学科修了。12月に帰国し、堀場製作所海外技術部長に就任
1981 3月、海外本部長に就任
1982 6月、取締役(海外本部長)に就任
1986 1月、取締役(営業本部長)に就任
1988 6月、専務取締役(営業本部長)に就任
1992 1月、代表取締役社長に就任
1996 仏ABX社買収1997仏ジョバン・イボン社買収
2005 独カール・シェンク社の自動車計測機器事業買収。6月、代表取締役会長兼社長に就任
2015 7月14日、英MIRA社の買収を発表。同日、創業者であり父でもある堀場雅夫が死去。8月5日、2015年1〜6月連結決算は純利益が前年同期比2倍の52億円で最高益を達成と発表


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[左]1945年、終戦2カ月後に立ち上げた「堀場無線研究所」。中央が3歳頃の厚氏と雅夫氏。
[右]雅夫氏自作の、国産初のガラス電極式pHメーター。性能の良さが高く評価された。


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[左上]2014年、米ホリバ・インスツルメンツ社にて。中央が雅夫氏。
[右上]昨年7月に買収を発表した英MIRA社の社長Dr.GeorgeGillespieと。
[左下]堀場製作所をグローバルニッチトップ企業に押し上げたエンジン排ガス計測システム。
[右下]MIRA社テストコース。旧空軍基地の滑走路を囲んで約4.5kmのテストコースがあり、直線320km/h、カーブ250km/hで走れる。

文=堀 香織

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