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2016.02.21 10:01

堀場雅夫の死後、初めて息子の堀場厚が語る

Atsushi Horiba / photographs by JanBuus


社是にもなった「おもしろおかしく」、「イヤならやめろ!」「出る杭は打たれるが、出すぎた杭は誰も打てない」などの名言を遺した創業者の堀場雅夫は、日本の学生ベンチャー第1号としてもよく知られる。創業は終戦わずか2カ月後の1945年10月。京都帝国大学(現・京都大学)在学中、烏丸五条の小さな町家に私設研究所「堀場無線研究所」の看板を掲げた。50年に国産初となるガラス電極式pHメーターを完成させると、国をあげての工業化の追い風に乗り、ヒット商品となる。創業8年で堀場製作所を設立し、社長に就任。分析・計測機器の専門メーカーとして事業を拡大していった。
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だがその姿勢は「開発のみに注力し、製造と販売は専門家に任せる」というものだった。学者肌で技術者魂の強い雅夫ならではの時代といえるだろう。

創業者の雅夫、技術系の生え抜きだった大浦政弘を経て、堀場厚が3人目の社長に就任したのは92年、43歳のときだ。結果からいうと、昨年までの23年で売上高は3倍を超えた。現在では世界27カ国49社に拠点を展開し、創業時に7人程度だった従業員数はいまでは約6,500人、そのうち6割以上が外国人である。

成功の秘訣は、堀場自身がさらなる飛躍のために「製造と販売を自前で行うことで、真に競争力のある製品をつくる」と考え、雅夫の経営哲学を180度方向転換したことによる。いわば、逆転の発想だ。この「第2の創業」ともいえる新時代のHORIBAを語るときに、堀場自身がいまでも大事にしているという「アンチ本社」と「現場主義」というふたつのポリシーは欠かせない。
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話はアメリカ武者修業時代にさかのぼる。堀場製作所が海外展開を本格的に行ったのは70年、アメリカのオルソン・ラボラトリーズ社との合弁会社オルソン・ホリバ社を設立したのが始まりだ。翌年に甲南大学理学部を卒業した堀場は、自ら父に「アメリカに行きたい」と申し出た。「うちは手を挙げたらチャンスを与えるという家でした。なぜなら誰かに押し付けられてやったことは、良い結果がでないときに自分の意志ではなかったとエクスキューズができるから。でも自分の意志であれば、挫折したくないから努力もする。それでうまくいかなくても失敗を糧にできるし、うまくいけば自信につながります」

堀場はオルソン・ホリバ社で日本人初のサービスマンとして働き始めた。初の修羅場は、日本からアメリカに届いた製品の不調だった。京都の本社に「故障している製品が多い」とレポートするも、一向にサポートがない。昼夜を問わず不調の原因を調べ、空輸時の問題と突き止めて修理を自ら行い、最終的には難を免れたが、堀場はそこで確信した。「本社や経営陣は、製造・営業の最前線である現場の本当の実情を知らないし、防人(さきもり)の苦しみを知らない。現場の的確な情報を把握していなければ、いずれ重要な経営判断を誤るだろう」と。

77年、堀場は帰国し、本社の海外技術部長に就任する。堀場製作所随一の「アンチ本社」の息子に対し、雅夫が「文句あるなら自分で改善せえ」と言ったのだという。時を同じくして雅夫は社長を退き、会長職に就いた。社長には前述の大浦が就任した。海外展開や営業、生産の改革を目指した堀場は、これまでの海外マネジメントを変えようとしない父や他の役員と真っ向から対立、幾度となく役員会で闘った。実際、会長となったあとも社内外で圧倒的に存在感のあった雅夫に面と向かって口答えできるのは、息子の厚だけだった。

しかし、その息子が社長に就任したとたん、雅夫は役員会でいっさい反論しなくなった。最高責任者として認めてくれたのだろう。就任後の3年に及ぶ減収減益時期にも、「信念をもって進めば必ず結果はついてくる」と雅夫は息子を励ましつづけた。
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文=堀 香織

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