ビジネス

2016.01.28

東大発バイオベンチャー企業、その夢の軌跡

ペプチドリーム創業者の菅 裕明 / photograph by Jan Buus

独自の創薬開発プラットホーム技術を確立した「ペプチドリーム」。
立役者の菅裕明教授に、会社が成功するまでの夢(ドリーム)の軌跡を聞いた。

少し古いが、興味深いデータがある。1960年にアメリカのビジネススクールに在籍していた1,500人のMBAを対象にした追跡調査だ。60年当時、彼らは「今すぐ夢を追いかけるか、まずは経済的に安定する職業につくか」というアンケートに対して、このように答えていた。

A:経済的安定を築いてから夢を追い求める。→1,245人(83%)
B:今すぐ夢を追い求め、お金のことは後から考える。→255人(17%)

それから20年後、アメリカのジャーナリスト、スラリー・プロトニックが彼らの現状を調査したところ、Bと答えた(つまり夢の仕事を選んだ)255人のうち、なんと100人が大富豪になっていた。確率でいえば39%だ。一方、Aと答えた(安定的な職業に就いた)1,245人のうち、大富豪になった人はたった1人。確率でいうと0.08%になる。

一概にはいえないかもしれないが、やはり夢を持ち、それを実現するために強い信念を持って邁進しつづける人こそが成功にいちばん近く、お金というのはそのあとについてくるものである、ということをこの調査は示唆しているのではないだろうか。


地味に堅実にスタートする
東京大学大学院理学系研究科の菅裕明教授の部屋に入ると、Macが3台乗った大きな仕事机の真後ろの壁に、1台のギターがシンボリックに飾られていた。高校時代はミュージシャンを目指していたという。「今も音楽は欠かせないんですよ。友人とバンドを組んで、練習して、そのあと反省会と称して飲むのが好きでね」。長い髪を後ろで束ね、飄々とした態(てい)の菅は、確かにジャズバンドか何かのバンマスのような独特な雰囲気があった。

菅は外国人15人ほどを含めた約50人からなる菅研究室の“バンマス”を務めるとともに、2006年に設立された東京大学発のバイオベンチャー企業「ペプチドリーム」の創業者でもある(役職は社外取締役)。

ペプチドリームは、錠剤(低分子医薬)か注射剤(抗体医薬)かという従来の医薬品の概念を超えた、独自の創薬開発プラットホーム技術を確立した会社だ。現在、スイスのノバルティスや英国グラクソ・スミスクライン、英国アストラゼネカ、米国ブリストル・マイヤーズスクイブなど外資系を中心に製薬9社と提携。20種類を超える開発パイプラインのうち、6つが非臨床試験を終えて臨床試験準備中という。これら製薬企業との共同開発に加え、技術ライセンス権供与、自社創薬の3本が今後の事業の柱に据えられている。

そのペプチドリームの要となる「特殊ペプチド」を20年にわたる研究の末に開発したのが、菅だ。経歴は華々しいながら、リスクと背中合わせの人生でもある。岡山県に生まれ、岡山大学工学部工業科学科に入学、4年時に有機化学に夢中になり、大学院へ進む。修士2年で休学して1年スイスに留学。ここで「自分の英語で化学について話せる」実感を得たことと、当時日本では完全に分離していた有機化学と生物が融合した「bioorganic chemistry(生物有機化学)」について話を聞く機会があったことが、菅のその後の進路を決めた。

修士を取得した菅はアメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)に在籍していた正宗悟教授に手紙を書く。正宗は日本人で初めて米国化学賞を受賞した研究者だ。「大変だろうが、とりあえず来てみたらいい」という返信を受け取り、渡米した。「どうせやるなら最大の可能性を突き詰める」というのが菅の学生時代からの指針だ。

MITを卒業した後はマサチューセッツ総合病院、ハーバード大学医学部の博士研究員を経て、ニューヨーク州立バッファロー大学の准教授に。約10年、アメリカで生物有機化学の研究に没頭したのち、03年に帰国した。

「理由はいくつかあるんですが、アメリカにはテニュアという終身雇用資格があって、これさえ取得すればクビにならない。そのテニュア取得という目標を6年目で達成できたこと。もうひとつが、僕はジョージ・W・ブッシュが嫌いでね(笑)。彼がこのまま大統領を続けていたら研究費のバジェットはどんどん削減され、軍事費に投入されちゃうなと思ったものだから。まあ、アメリカでやれることは全部やったし、次は母国で何か貢献する時期かなと思ったんです」

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文=堀 香織

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