──どんな子供だった?
百科事典でもサイエンス・フィクションでも何でも、あらゆる分野の本に興味を持っていた。息子がそれほど熱心な読書家であることをとても嬉しく思っていたよ。夕食のときは本を読まない、というルールを作らなければならないほど、読書に没頭していたね。
──大人になったら何をしたいと言っていた?
5年生のとき、大人になったら何になりたいか考えるという宿題があった。医師や消防士、カウボーイなどの職業名の横にチェックボックスがあるリストを持ち帰り、息子は「宇宙飛行士」に印を付けていた。ただ、余白に自分で「科学者」と書いて、その横にも印を付けていたよ。
成長するにつれて、世の中の動きに強い関心を示すようになった。ビジネス、人生、国際問題、未来などについて、思慮に富んだ意見を述べるようになった。そのころは、理屈っぽい少年がやがて私の「ボス」になるとは思ってもみなかった。
──コンピューターに関心を示したのはいつごろ?
非常に早い時期からだ。通っていた学校の生徒の母親らが、教師たちのためにコンピューター関連の機器を購入した。うまく使えなかった教師たちは尻込みして使うのをためらうようになったが、ビルはこれを使うことを認められていた数人の生徒の一人で、使いこなせるようになった。13歳になるころには、もうコンピューターに夢中になっていたね。
──大学に入る前に働いていた?
高校の最後の年、息子は授業を休んでワシントン州ノース・ボンネビルの発電所でプログラミングの仕事をした。私も妻も校長も、ビルの能力や関心に適した仕事だと考えた。一緒にこの仕事をした同級生のポール・アレンと、徹夜で配電網の管理システムのコーディングをしたなどと話していたのを覚えているよ。
──ハーバード大学を中退すると聞いたときの気持ちは?
心配しなかったとは言えない。でも、息子はそのころにはすでに、私に頼らず自分で決断するようになっていた。目標達成に向けた自分なりの考えを持っていたんだ。それに、ポールと一緒に始めたコンピューターの仕事が非常に忙しくなっていた。私も妻も、子供が大学を中退することを望んではいなかったが、ビルは確信を持って行動しているようだった。
──慈善活動について
亡くなった妻のメアリーは「ルカによる福音書」に説かれた「多く与えられた者は、多く求められる」との教えを固く信じていた。子どもたちにも幼いころから、この考えを大切なこととして教え込んでいた。
マイクロソフトの経営から得られる富が増すにつれて、息子とその妻メリンダは、シアトル周辺で活動する非営利団体から盛んに慈善寄付を求められるようになった。だが、当時はマイクロソフトの経営と子育てに手いっぱいで、慈善活動について考える余裕がなかった。二人は、ビルがマイクロソフトを引退してから慈善活動に本腰を入れようと計画していた。家族で財団を設立し、運営するのは簡単な仕事ではない。
状況が変わったのは、1994年にメアリーががんで亡くなり、私が弁護士の仕事を辞めた後だ。私はビルとメリンダに、生活環境も変わったことだし、二人の慈善活動を手伝うことができると話した。引退後に携わるには良い仕事だし、二人の役に立てると思ったからね。それから一週間くらいしたころ、電話でビルから「1億ドル(約120億円)で財団を設立することにした」と聞かされた。あぜんとしたが、嬉しかったよ。最初に寄付したのは、がん治療に関わる地元の団体だった。