この世界で「働くクルマ」を、もっと「乗りたくなるクルマ」へ。矢野彰一は創業者の孫であり、100年以上の長きにわたって特殊な車両をつくり続けてきた矢野特殊自動車の4代目社長である。幼いころから祖父とは共に機械いじりに親しんできた。その大きくて温かい背中を今も追い続けている。
飛ばなかった飛行機がすべての始まりだった
福岡県糟屋郡に本拠を置く矢野特殊自動車は冷凍車、タンクローリー、車両運搬車といった特殊車両、すなわち「働くクルマ」の開発および製造を手がけている。創業は、1922年。地元の実業家から熱心に自動車づくりを請われた創業者・矢野倖一が、現存する走行可能な国産自動車としては最古の「アロー号」を製造したことに始まる。同社の歴史から語り起こしてくれたのは、創業者の魂を継ぐ孫であり、現代表取締役社長の矢野彰一だ。
「福岡工業高校の機械科で学んでいた祖父は、将来はエンジニアになって飛行機を手がけたいという夢を見ていました。明治45年(1912年)に福岡日日新聞社が主催した模型飛行機大会に出場した祖父は、周囲がゴム動力機で参加するなかで、ただ一機、小型のガソリンエンジンを搭載した飛行機で挑みました」
倖一少年が1年がかりで製作した飛行機は、数メートルほど滑走しただけで飛び上がることはできなかったという。しかし、審査員たちは彼の並々ならぬ努力と将来性を高く評価して最優秀賞を贈った。その受賞の記事を読んだ地元の実業家が彼を訪ねて、自動車の道に進むことを強く請願したのだった。
「大正5年(1916年)、倖一が24歳のときに生み出したのがアロー号です。例えば、シリンダーは鋳造で手がけ、ピストンリングも加工法を案出し、ベアリングは極軟鋼材を切削加工していきました。タイヤやプラグ、マグネットなどに外国製品を使用した以外、部品のほとんどを純国産の手づくりで完成させたのです」
技術で人を笑顔にすることが自社の存在意義
58年、矢野特殊自動車は国内初の冷凍機能付き輸送車を開発した。現在、大型冷凍車では国内で35%ものシェアを握り、全国トップクラスのシェアを占めている。また、民間向けの航空機給油車のシェアは約50%で、こちらも全国トップクラスだ。
「私たちが手がけている特殊自動車は、運ぶものに応じて顧客からのさまざまな要望を反映させたカスタムメイドモデルとなります。例えば、大型冷凍車は『常温・冷蔵・冷凍』という3つの温度帯に対応可能です。『シャキシャキの鮮度を保ったままで畑からレタスを直送したい』『厳しい温度管理が品質保持の命脈となるアイスを工場から届けたい』といった要望ごとに、求められる温度は細やかに変わります。冷やす温度が異なるものを同時に運びたいなら、荷物室の前方が冷蔵で後方が冷凍というように、1台のトラックのなかで温度帯を切り分けて使用することもできます。また、輸送中の振動によって生まれるキズを嫌う高級果物などの輸送車には高い防振性を盛り込んでいます」
矢野特殊自動車に寄せられるニーズは、実に多様である。同社には、創業時から「矢野スピリット」が受け継がれているという。
「矢野スピリットの真髄は『技術で人に喜ばれたい』という祖父の想いです。創業の契機となった自動車も、特殊な自動車生産の端緒となったダンプカーも、国内初の冷凍機能付き輸送車も地元・九州の人々の強い要望があって生まれています。私たちの原動力は誰かの笑顔であり、人の役に立ち、社会の力になれているという何にも代えがたい実感なのです」
22年、倖一は九州に多い炭鉱や鉱山からの需要が相次いだことを受けて矢野オート工場(現在の矢野特殊自動車)を創業し、ダンプなど特殊自動車の製作に乗り出している。20年には自動車用スクリュージャッキにヒントを得て、独自にダンプ装置を考え出していた。これが国産初のダンプボディ製作だとされている。そして現在に至るまで、矢野特殊自動車は同業他社が手がけていない車の開発を行い、他社が技術的に無理と諦めた車でも、それを誰かが求めているのなら独自の技術で製品化してきた。
長引く不況を乗り越えて、起死回生の掛け算へ
現代表取締役社長の彰一が矢野特殊自動車に入社したのは、日本が高度成長期やバブル期を終えて「失われた30年」に突入した時期だった。
「私が入社した93年は、第一次平成不況の最中でした。97年から99年にかけての第二次平成不況期(97年秋の金融機関破綻を契機にした金融システム不安を伴う景気後退期)には売り上げが落ち込み、赤字を計上する事態に陥りました。製品ごとの市場競争も激化するなか、この危機を脱して、再び成長軌道に乗せるために、99年4月に実施したのが、組織の事業部制への移行でした。特装車事業部、タンクローリー事業部など4つの事業部に分けて、それぞれの事業に責任と権限を与える判断を下しました」
事業ごとに採算を見える化し、意思決定を速くし、強い事業に経営資源を集中し、責任と権限を委譲することにより、現場の士気は上がった。事業部長の選出には「社内公募」という革新的手法を採用し、指示待ち文化を打破する自律的組織への転換も進めた。これらの再建実務の先陣に立って旗を振り続けたのが彰一だった。
「そうしたなか、滋賀県に工場を構えるアルナ工機の冷凍車部門から事業譲渡を打診されました。赤字事業の再生案件であり非常に難しい判断でしたが、私は陣頭指揮を取ることを決意しました。2003年のM&A成立後は、自ら滋賀に移り住んで再建に取り組みました」
不安と苦労は尽きなかったが、「技術で人に喜ばれたい」という創業の理念を決して忘れなかった創業者の孫の挑戦は花開いた。
「滋賀県に拠点をもてたことにより、それまでは九州がメインだった特殊自動車の納入先が本州にも広がっていきました。地方区から全国区へと躍進することができたのです。もともと、アルナ工機は阪急系の鉄道車両メーカーで、アルミニウムの加工技術を生かして鉄道やバスの窓枠をはじめ、冷凍トラックまでを生産する企業でした。矢野特殊自動車とは出自が異なり、得意とする技術分野も異なっていました。だからこそ、両社のいいところを掛け合わせて、画期的な冷凍車を生み出すことも可能になったのです」
長引く不況のなかにあっても、彰一の折れない心・柔軟な心がピンチをチャンスに変えていったのだ。「現場の士気の高揚」×「技術の総決算」。この起死回生の掛け算を象徴する1台と言えるのが、矢野とアルナの技術融合で誕生した高品質・高性能の「XPSハイブリッド断熱パネル式大型冷凍車」である。これは、矢野特殊自動車が98年から市場に投入、XPS(ポリスチレンフォーム)をアルミ板でサンドイッチにした断熱パネルを使用し、軽量・美観・高断熱・低コストで業界標準を塗り替えていた「XPSアルミ断熱パネル式大型冷凍車」の強度や耐久性を増強した進化版だ。その競争優位性が名古屋・東京方面の営業拡充と相まって、日本ハムや明治、ニチレイ、キユーピーなど大手食品メーカー関連の運送会社へと顧客層を拡げた。
彰一が経営管理改革を担うべく社長室次長として入社した93年に60億円だった売上高は、25年には164億円にまで成長している。また、事業部化とインバウンド需要で追い風の航空機給油車事業では、フランスのタイタンエアログループに4割出資し、技術力強化と国際展開を目指している。
「乗りたい!」という想いが未来をドライブしていく
大型トラックの全体寸法である「幅2.5m、高さ3.8m、長さ12m」のなかに凝縮された矢野特殊自動車の技術は、軽くて頑丈で安全で耐久性があることを担保しながら、顧客の多様なニーズに寄り添ってきた。そうすることにより、日本の産業や物流の発展を支えてきたのだ。
そんな同社が2022年に創業100周年を迎えるにあたって掲げたのが「Shoot the next Arrow(次世代の矢・アローを放とう)」というスローガンだった。
「今、物流業界が深刻なドライバー不足に直面しているなかで、『いかにして輸送の効率性を飛躍的に上昇させるか』が議論の的になっています。私たちは近年、取引先の協力を得て、IoTによるデータ取得を進めているところです。温度データを分析し、最も効率の高い積載設計を導き出し、顧客のランニングコストを抑える提案などにつなげていきたいと考えています」
今、矢野特殊自動車は輸送効率、(安全性向上を含めた)輸送品質のアップグレードはもちろん、外観の改善に至るまで新たな価値を提供し、さらにはデータを駆使したソフトウェアとの連携も視野に入れながら「乗りたくなるクルマ」の開発を目指している。
矢野特殊自動車と、特殊自動車の納入先で働くドライバーの一人ひとりが「乗りたい!」という想いで緊密につながること。その熱い想いがつながって、ひとつの大きな輪を成すことにより、日本の未来はたくましくドライブしていく。
やの・しょういち◎1961年、福岡県生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了後、建設機械メーカーで国内外の勤務を経験し、93年にバブル崩壊後の不況にあえいでいた矢野特殊自動車に社長室次長として入社。原価管理・生産管理、アルナ工機冷凍車部門の滋賀工場再建などの仕事を経て、2007年に代表取締役社長に就任。
矢野特殊自動車
本社/〒811-0123 福岡県糟屋郡新宮町上府北4-2-1
URL/ https://yano-body.co.jp
従業員/本社及び工場365名 他関連グループ会社162名(2026年10月時点)




