経営・戦略

2026.10.27 14:15

ハッキングなき「機密情報流出」の真因──地政学リスクが突く内部の盲点

Iftekhar Emon/ Shutterstock.com

Iftekhar Emon/ Shutterstock.com

一通のメッセージから、事件は始まった。「技術顧問になってほしい」──2018年、積水化学工業の研究職社員のもとに、LinkedInを通じて中国企業から接触があった。同社員にとって、自身の知見を高く評価してくれる相手だった。その後、この社員は、自社のスマートフォン関連技術の営業秘密を中国企業に流出させたとして、20年に書類送検され、翌年、有罪判決を受けた。

advertisement

これは決して特殊な話ではない。流出先企業は派手なハッキングもしていなければ、工作員を送り込んでもいない。同企業に必要だったのは、積水化学工業で「誰が何を知っているか」を把握することと、相応しい社員に声をかけることだけだった。

私はこれまで数多くの企業の危機管理を支援してきたが、これに類する話は非常に多い。そして流出先企業による声のかけ方には、型がある。「この分野の第一人者を探している。あなたが候補にあがったのでぜひ講演をお願いしたい」「事業拡大と米国での資金調達に向け、経営顧問になってほしい」。一定のキャリアを積んだ人間の自尊心をくすぐる言葉を並べるのだ。

「地政学リスクへの備え」と言えば、多くの人が思い浮かべるのは外の世界への対応だろう。経済制裁への対応、サプライチェーン遮断リスクへの備え。本連載でもそうした外の世界への対応について繰り返し論じてきた。

advertisement

しかし、冒頭の事件が示すように、国家間の競争はすでに企業の内側まで届いている。こうした問題は、例えば広報や人事など、個別の部門課題として縦割りで処理され、「地政学リスク」として一枚絵で捉えられることは少ない。もはや外を見るだけでは、企業は守り切れないのではないか。最大の盲点は、企業の内部にあるのではないか。本稿ではその答えを、「人材」「ナラティブ」「情報」という3つの切り口で紐解いていく。

盲点1. 「人材の海外流出」は地政学リスクそのもの

人材は事業を支える資源であると同時に、国境を越える知識と技術の担い手である。とりわけ、自社の競争優位に直結する技術情報に触れる社員は、その知識自体が国家間競争の対象となる存在だ。

転職は個人の自由だ。ただし企業が知るべきは、技術人材の国際的な流動が、いまや地政学的競争と強く連動しているということだ。人材の移動は、国家戦略の一側面として読み解く必要がある。

実際、データはそれを裏付けている。欧州のAI政策研究機関Interfaceは、26年に調査分析レポート「Talent in, Talent out」を発表した。そのなかで、160万人以上のAI技術者の国際的な移動を追跡。米国の技術者が海外企業へ移る割合は、21年には約3%だったが、25年には約6%へ増加したことを示した。背景には、トランプ政権下でのビザ政策厳格化や、米国における企業競争環境の変化があると分析されている。

他方、中国で訓練されたAI人材の海外流出は減少しており、国家戦略による囲い込みが進んでいると推測される。また、ノースカロライナ大学のスティーブン・グレーザー准教授らの研究(26年)は、特許の開示によって「誰が何を知っているか」が公開されると、外部企業が対象者を特定しやすくなり、その科学者が引き抜かれる確率が有意に上昇するという因果関係を示した。技術人材の引き抜きは属人的な事件ではなく、開示制度と人材市場の構造のなかで、系統的に起きているのだ。

象徴的な事件も相次いでいる。オランダの半導体露光装置メーカーASMLでは23年、中国勤務の元社員が機密技術に関するデータを不正にもち出していたことが年次報告書で公表され、当該人物が後に中国のファーウェイに移籍していたと報じられた。

さらに米国では、Teslaの自動運転技術に携わっていた元技術者が、中国のEV企業Xpeng(シャオペン)への転職を前にソースコードを複製したとして提訴され、後に和解。Appleでは、自動運転プロジェクトの元技術者が、同じく中国のEV企業への転職を前に機密情報をダウンロードしたとして起訴され、22年に米司法省の刑事事件で有罪を認めた。いずれも、重要技術や機密データを不正にもち出したうえで、競合国家の企業へ移るという構図である。

次ページ > 経営者のジレンマを解くために

文=岡部貴士

タグ:

連載

Leader’s Compass:リーダーのための地政学の使い方

advertisement

ForbesBrandVoice

人気記事