リーダーシップ

2026.10.21 08:47

リーダーを辞めたいと思っても、指導意欲を失ったわけではない

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2025年の春、私はチームと激しい衝突を起こした。上司を疲弊させ、激怒させ、事業を継続したいかどうかを含め、自身のビジネスのすべてに疑問を抱かせるような衝突だ。あるチームメンバーは、公の場で私をこう非難した。「自分の仕事をしてください!」

自分の仕事をする? 私がこの数週間、会社の未来を守るために休みなく働き続けてきたことがわからないのだろうか。また別のメンバーは、私が提示したばかりの確実な計画を無視するだけでなく、それまで従業員や会社のために行ってきたすべてを完全に無視して、私が何をしようとしているのか理解しているのかと疑問を口にした。

私は激怒し、正直なところ呆然とした。会社を辞めて、これからは私抜きで経営すればいいと言ってやりたかった。別の部屋に入り、夫を見て、涙を流しながら呟いた。「もう上司なんてやりたくない」。その言葉が口から出た瞬間、全身の力が抜けた。久しぶりに、かすかな安らぎを感じた。

その感情は何年も前から蓄積されていた。私は起業家であることに誇りを持っていた。信頼される権威と自負できるだけの資格や経験、そして修羅場をくぐり抜けてきた実績があった。誰の指示も受けずに済むよう自分の上司になりたかったのだが、上司という立場がどれほど孤独で、精神的に疲弊し、ただただ理不尽に感じられるかについて、何の準備もできていなかった。会社であれ、チームであれ、家族であれ、どのような組織のトップであっても同じだ。

そして、そう感じているのは私だけではない。世界のリーダー約1万1000人を対象にしたDDIの「Global Leadership Forecast」2025年版では、71%がストレスの増加を報告し、ストレスを抱えるリーダーの10人に4人が、自身のウェルビーイングを守るためにリーダー職から完全に退くことを考えたことがあると答えた。

彼らは、他者全員のニーズ、決定、感情、期待の重みを背負っている、あるいは背負わなければならないと思い込んでいるリーダー、創業者、マネージャーたちだ。これは重要な違いだ。リーダーシップには責任が伴う。しかし、私たちはいつの間にか、仕事に対する責任を「周囲の人間がその仕事に対してどう感じるか」に対する責任へとすり替えてしまっているのだ。

これまでコーチングを行ってきたどれほど多くのリーダーが、「一瞬でもいいから放っておいてほしいという理由だけで、病気にでもなればいいのにと密かに願っている」と明かしてくれたことか。

職務記述書には決して書かれない部分

リーダーシップとは単にビジョンを示すことだけではない。人に関わることなのだ。そして、人間とは一筋縄ではいかない存在だ。単に事業を運営したりチームを率いたりするだけでなく、感情や期待、そして混沌をマネジメントしなければならない。しかも多くの場合、自分自身の感情が周囲にとっての「対処すべき新たな問題」にならないよう配慮しながらそれを行うのだ。

人を率いるということは、フィードバックやプロジェクトの進捗状況以上のものを吸収することを意味する。ストレス、機嫌、不可解な行動、誤った認識、論理的でない言動、そして時には誰かの解決していないトラウマを受け止めるということだ。それは、リーダーの職務記述書には決して記載されない「感情労働」を引き受けることを意味している。

「感情労働」という言葉は、1983年に社会学者のアーリー・ホックシールドによって提唱された。彼女は、通路を走り回る大声の子供から乱気流で落ちてくる酸素マスクまで、あらゆる状況において笑顔を保つことを求められる客室乗務員を調査した。彼女たちの役割は単なるサービスではなく、機内全体の「感情の調整」だったのだ。

感情労働とは、「正しい」あり方、あるいは他者が期待するあり方で振る舞えるように、自分の感情を管理する仕事である。ある時は、特定の感情が漏れ出して否定的な感情の連鎖を引き起こさないように抑え込むことを意味する。また別の時は、他者に落ち込まされないようにしつつ、相手にとって心地よく受け入れやすい形になるようフィルターを通して自己表現することを求められる。そしてそれが肥大化すると、「もうこの仕事を辞めたい」という完全な拒絶反応へと発展するのだ。

送信前にメールを27回も書き直すとき、本心を隠して表面上は微笑むとき、あるいは仕事を完遂するためだけに不適切な発言を看過するとき、感情労働は姿を現す。しかし、感情の抑圧は確実に代償を伴う。憤り、苛立ち、無関心、慢性的な疲労感、そして世界の重みを一人で背負っているような感覚を煽るのだ。

それはテラスのひび割れから雑草が少しずつ生え、いつの間にか見苦しいジャングルになるように、ゆっくりと蓄積していく。外から見れば、まだうまく対処しているように見える。しかし内心では限界を超えており、何が決定打となったのかさえ特定できない。これこそが感情労働の奇妙な点の一つだ。効果的に引き受ければ引き受けるほど、周りはその重荷に気づかなくなる。限界を迎えるその瞬間まで、周囲はあなたを「安定していて有能で、対人関係に長けた人」としか認識しないのだ。

「装うこと」と「真に感じること」の違い

ここから感情労働の「2つの側面」の話に行き着く。心理学者のアリシア・グランディによると、感情労働にはまったく異なる2つの現れ方があるという。一つは「表面演技(サーフェス・アクティング)」で、実際の感情を変えずに表出だけを変える行為だ。会議中に頷きながら相手の話に強い関心があるように見せかけているが、心の中では「頼むから黙ってくれ!」と叫んでいるような状態だ。

もう一つは「深層演技(ディープ・アクティング)」で、表現するものが真の感情に近づくよう、感情そのものを変化させようとする試みだ。例えば、あなたを苛立たせる部下に対して忍耐強いふりをする代わりに、「この部下は不安でいっぱいいっぱいなのかもしれない」「自分が気づいていない視点を持っているのかもしれない」と自分に言い聞かせる。その意識の切り替えによって、実際の感情が変わることもある。

表面演技を繰り返し、心にもない感情を装うことは、自分に誠実でないため自身を摩耗させる。バーンアウト(燃え尽き症候群)、懐疑主義、疲労感、さらには頭痛や不眠症といった身体的症状を引き起こすことさえある。対処する代わりに感情を押し込めることでエネルギーを使い果たすため、時間の経過とともに自制心が侵食されていく。小さな問題が巨大な山となり、やがて糸が切れてしまう。一つの出来事に対してではなく、あらゆることに対して耐えきれなくなるのだ。

それは本当にあなたが背負うべきものか?

しかし、自分が感じていることを適切にコントロールできるようになる前に、リーダーが問うべきもう一つの質問がある。「これは本当に自分が背負うべきものなのだろうか?」

時には背負うべき場合もある。あなたは上司なのだから。自分の不満を理由にチームに八つ当たりすることは許されない。あなたの不安を周囲全員の緊急事態にする必要もない。感情的に反応したくなる局面で、自分自身をコントロールできることがリーダーシップには求められる。

しかし時に、私たちはその責任を行き過ぎた形まで広げてしまう。誰かが落胆していれば気分を良くさせる責任を感じ、決定に反対されればその決定自体が正しかったのか疑問を抱き始め、将来に不安を感じている人がいれば自分の不安とともに相手の不安まで吸収してしまう。いつの間にか、人を導く(leading)ことが、人を背負う(carrying)ことになってしまうのだ。

そこで役立つのが、次の3つの質問だ。「自分がコントロールすべきものは何か?」「対処すべき問題は何か?」そして「自分が背負うべきではないものは何か?」

感情に名前をつける:どんな感情であれ機械的に押し込めるのではなく、言語化してみる。「激怒している」「いっぱいいっぱいだ」「今日の稼働能力は40%だ」といった具合に。

自分の感情状態を言葉にする感情ラベリングに関する研究では、感情に名前をつけることは、調整に関わる前頭前野の領域の活動増加と、扁桃体反応の低下に関連することが示されている。平たく言えば、感じていることを言葉にすると、その強度をいくらか下げる助けになり得るということだ。

この原則は自身のキャパシティを把握する際にも有効だと気づいた。「今日の稼働能力は40%だ」と認めても、残りの60%が魔法のように手に入るわけではない。しかし、あたかも100%あるかのように判断してしまうのを防ぐことはできる。

対処する:次に、より難易度の高いプロセスが待っている。気づいたことに対してどう行動するかを決めることだ。次の会議も笑ってやり過ごすのではなく、気まずい対話に臨む必要があるかもしれない。相手のあなたへの話し方は容認できないと伝える必要があるかもしれない。

手放す:誰かが決定に対して落胆していても、その落胆を解消しようと焦らず、そのまま受け止めさせる必要があるかもしれない。そして、一人で抱え込む必要はないし、そうすべきでもない。強力なリーダーであってもバックアップが必要だ。自分が背負うべきものとそうでないものについて真実を語ってくれる人物(エグゼクティブコーチ、信頼できる友人や家族、尊敬する同僚など)だ。親しい腹心は、自分自身よりも常に客観的に状況を見極めてくれる。

問題は「仕事」ではなく「重荷」だった

振り返ってみると、「もう上司なんてやりたくない」という言葉は、吐き出した当時に自分が考えていたような意味ではなかったと思う。必ずしも指導する立場を辞めたかったわけではない。会社に対して責任を負うことが、会社に関わる全員の感情や体験にまで責任を負うことになっていた、自ら作り上げたリーダーシップのあり方から解放されたかったのだ。

自分が背負うべきでないものまで責任を負わなくても、リーダーシップとは十分に過酷なものだ。それをうまく実践するには、大局的な視点、実際に守られる境界線、時には痛みを伴う自己認識、そして他の大人たちに自身の感情や反応、各自の仕事に対する責任を持たせる勇気が必要となる。

仕事を愛し、ミッションを信じ、うまく率いたいと望みながらも、愛犬とともに森の中に姿を消したいと妄想することは十分にあり得るのだ。

リーダーを辞めたいと思うことは、必ずしも指導意欲を失ったことを意味しない。それは、これまでのリードの仕方が持続不可能になったことを示しているのだ。そして、この2つは解決すべき全く異なる問題なのだ。

(forbes.com 原文)

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