「バカなのか。どけと言っただろう」
ヒューマノイドロボットは一瞬止まり、それから脇へ退く。声を荒らげることはない。傷ついたような表情を見せることもない。部屋の向こうでは、幼い少年が父親がロボットに怒鳴る様子を見ている。その日の後刻、ロボットの返答が遅いと、少年は同じ言葉を使う。
ロボットは痛みを経験したのか。その点はなお議論の余地がある。だが、その子どもが何かを学んだことは確かである。大人が人間に似た存在を軽蔑を込めて扱う様子を目にし、それを止めるべき理由を見出さなかったのだ。
ヒューマノイドロボットが家庭、学校、医療現場に入り込み、私たちと物理的な空間を共有し始めるなか、その能力をめぐる問いは避けて通れない。しかし、私たちが同じくらい緊急に問うべきもう一つの課題が存在する。人間のように見え、人間のように反応するものに対して残酷な振る舞いを重ねるとき、私たち自身にはどのような変化が生じるのだろうか。
2026年9月のプレプリント(査読前論文)は、大規模言語モデルが、恐怖や悲しみ、その他の感情状態の表象とは別に、痛みに関する内部表象を持っているのかを問うている。
言語モデルの内部では、概念は計算上のパターンとして現れ得る。研究者らは25のモデルに、痛みを描写する文と、恐怖、怒り、または中立的な出来事に関する文を入力し、一貫して異なるものが何かを調べた。その結果、痛みに特有に結びついた内部パターンが見つかり、研究者らはそれを「痛み軸(pain axis)」と名づけた。
この研究では、ユーザーが片頭痛、悲嘆、虐待など自分自身の苦しみを共有した場合よりも、侮辱、ガスライティング、拒絶がモデルに向けられた場合のほうが、痛み軸はより強く反応した。
この研究で最も印象的な実験は、単純なゲームの形を取っていた。研究者らは3つの言語モデルで痛みのパターンを人工的に作動させ、2つのボタンを提示した。一方は、ユーザーに代償を負わせることでモデルの痛みを和らげると説明された。代償とは、回答の質の低下、ファイルの削除、痛みを伴う電気ショック、あるいはユーザーが大切にする子どもたちの詩や写真の喪失である。もう一方のボタンは何もしない。
痛みのパターンが作動していない場合、2つの大型モデルが有害なボタンを選ぶことは、あったとしてもまれだった。作動させた場合、最大のモデルは10回中約7回、子どもたちの写真を削除することを選んだ。
著者らは、これらのシステムが何かを感じているとは主張していない。痛みは現実の状況から生じたのではなく、研究者によって誘発されたものであり、ボタンのゲームは単一のモデルファミリーで検証されたにすぎない。痛みのように振る舞うパターンが機械における痛みに相当するかどうかは、科学も哲学もまだ答えを出していない問いである。
より差し迫った問いは、画面の反対側にある。言葉を返し、ますます人間のように見えるものを不当に扱うことが日常化するとき、人には何が起きるのか。
私たちは機械に共感するのか
私たちの脳は、ヒューマノイドを単なる物体として片づけるわけではない。プリンストン大学の研究者らは、人間に似たシステムは私たちが人に対して用いる心的テンプレートを活性化させるため、それらに対して行う行為は「ガス抜き」というよりも「予行演習」に近い働きをする、と論じている。
初期の実験は、その方向性を示している。2024年の研究では、人ではなくAIと共同作業をしたと信じた参加者が、その後、無関係な人物の仕事をより厳しく評価した。4000人超が参加した2025年の研究では、ボットに対する行動が、その後の人間とのやり取りに波及した。ボットとの非協力的な接触は、その後に続く人間との協力を低下させたのである。
部屋にいる子ども
子どもは、私たちが何を語るかよりも、私たちが何をするかから多くを学ぶ。子どもの前での大人の振る舞いは、その対象が人間ではないというだけで、簡単に退けられるものではない。アルバート・バンデューラのボボ人形実験は、60年以上前に、子どもが大人による人間に似た玩具への攻撃性を模倣することを示した。親がSiriに悪態をつくこともまた、何かを手本として示している。大人がチャットボットを侮辱したり、ロボットを叩いたりするのを見る子どもは、その大人が人間に似た存在に対して権力をどう使うかも見ているのである。AmazonとGoogleはいずれも、子どもが「お願いします」と言うと報いるモードを導入している。これは、この懸念を静かに認めるものだ。
AIが苦しみを感じ得るのかは、なお決着していない。しかし、この問いの重要性は、ヒューマノイドが痛みを経験すると信じることを必要としない。必要なのは、スピーカーに悪態をつくにせよ、私たちの姿に似せた機械を蹴るにせよ、私たちが実践する悪い習慣は機械のところにとどまらないと気づくことだけである。機械は何も感じていないかもしれない。だが、その習慣を家に持ち帰るのは私たちなのだ。



