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2026.10.14 11:00

機密データを生かす「秘密計算」の可能性―― 産総研とZenmuTechが共創で挑む社会実装の舞台裏

AI時代を迎え、企業間データ連携の重要性は増しているが、機密性の壁がその利活用を阻んできた。産業技術総合研究所とZenmuTech(ゼンムテック)が挑む「秘密計算」は、データを隠したまま解析を可能にするゲームチェンジャーとなる可能性を秘めている。個社の利益を超えて産業全体の未来を切り開く、両者の共創の軌跡に迫る。


企業には顧客の個人情報や製品・サービスの生産にまつわる情報など、通常であれば外部に公開することのできない機密情報が数多く存在している。それらは使い方次第で新しい事業価値の創出に寄与する可能性を十分に秘めているが、実際には個人情報の保護や自社の競争優位性を保つといった観点から、十分な利活用がなされていないのが現状だ。

しかし、産業技術総合研究所(以下、産総研)のサイバーフィジカルセキュリティ研究部門で首席研究員を務める花岡悟一郎(以下、花岡)は「AIの普及によってセンシティブなデータを扱う機会が増えるにつれ、データを守りながらAIを活用したいというニーズが急速に高まってきた」と語る。

産業技術総合研究所 サイバーフィジカルセキュリティ研究部門 首席研究員 花岡悟一郎
産業技術総合研究所 サイバーフィジカルセキュリティ研究部門 首席研究員 花岡悟一郎

花岡は機密情報にまつわるビジネス上のジレンマを解消し、企業間でのデータ連携を可能にする「秘密計算」という技術の第一人者である。その実現可能性は1980年代から知られており、データの中身を明かさないまま計算や分析を行うため、他社に共有したとしてもその内容が見られることはない。

原理的にはシンプルで、データを複数に分割し、それぞれ別々のコンピューターに割り振った上で計算を行うというものだ。例えば「3+6」という計算の、「3」と「6」を秘匿したまま実行する場合を考える。この時、3は「2」と「1」、6は「2」と「4」といったように、足し合わせると元の数字になるランダムな数字に分割する。そして、計算を担う双方のコンピューターで、「2+2」と「1+4」の計算を行い、出てきた「4」と「5」の数字を使って、「4+5=9」という結果を得る。こうして分割されたデータは、それぞれのコンピューターがもつ断片だけからは元の数字を知ることができない。その状態のまま計算を進め、最終的な計算結果だけを得られる。

だが、秘密計算の実用化は長らく限定的だった。当初は理論研究としての側面が強く、実社会で活用するニーズも限られていたためだ。その状況が変わり始めたのが2010年代である。社会におけるデータ活用の需要が高まるとともに、秘密計算の高速化や実装技術も進展。研究室で培われてきた理論を現実のシステムに適用できる環境が整い、実用化に向けた動きが本格化した。

産総研は、秘密計算をはじめとする高機能暗号分野において国際的に数多くの研究成果を生み出し、その過程で蓄積された最先端の知見を生かして、実社会で活用可能な秘密計算技術の設計・開発に取り組んできた。花岡は、セキュアプラットフォーム研究グループ主任研究員である大原一真(以下、大原)らとともに、導入や運用の容易さから実用上の利点が大きい2台構成に着目し、従来は3台構成に比べて性能面で不利とされていたこの構成でも、遜色ない速度を実現するための新技術の開発に取り組んだ。

2021年には、秘密計算における重要な要素技術である暗号化データの並び替え(シャッフル)処理を100倍以上高速化するなど、実践的な利用を見据えた研究成果も生まれた。一方、技術開発と並行して進められていたのが、ZenmuTechとの協業である。両者は企業との対話を重ねながら適用先や利用方法を具体化し、秘密計算の社会実装に向けた取り組みを進めていた。

技術の証明と市場の接続、手探りから始まった協業

産総研とZenmuTechの接点は、研究成果が生まれる3年前の2018年にさかのぼる。ZenmuTech専務取締役COO兼CTO國井晋平(以下、國井)が、自社の「秘密分散」技術を携えて花岡のもとを訪ねたことが始まりだった。

「秘密分散」とは、データを意味のない複数の断片に分割し、分散して保管することで情報漏洩を防ぐ暗号技術のひとつだ。「秘密計算」でも使われており、先ほどの例で言えば「3」というデータを「2」と「1」に分けるパートを指す。

ZenmuTechは14年創業のスタートアップ企業。「秘密分散」を用いたセキュリティのソリューションを大手企業に売り込もうと奔走していたが、行く先々で突きつけられたのは「スタートアップのセキュリティ技術を信用できるのか」という壁だった。

國井は当時の状況を、こう振り返る。

「ZenmuTechのフロントに立つメンバーには暗号やセキュリティの専門的な知見をもつ人間が十分に揃っておらず、自力で安全性の証明を示すことは難しい状況でした。そこで、客観的なオーソリティをもつ産総研から理論的な安全性証明を得なければならないと、知人を頼って花岡先生のもとを訪ねたのです」(國井)

ZenmuTech 専務取締役 COO兼CTO 國井晋平
ZenmuTech 専務取締役 COO兼CTO 國井晋平

実は花岡のもとに、自社の技術に対する評価や協力を求める相談は少なくない。ただ、指摘された課題を直ちに改善へとつなげる企業はそう多くない。そのため、花岡が最初からZenmuTechに特別な期待を抱いていたわけではなかった。ではなぜ、産総研は同社と協業関係を結ぶことになったのか。

 「技術的な課題を指摘すると、その改善には相当な労力が必要になるため、検討が止まってしまうことも珍しくありません。しかしZenmuTechさんは違いました。私たちが提示した課題に対して徹底的に検討を重ね、わずか1か月ほどで私自身の想定を超えるところまで到達した解決案をもって戻ってきた。その姿勢と技術への真摯な向き合い方に強く感銘を受け、この会社となら秘密計算の社会実装に本気で取り組めると感じました」(花岡)

同社の真剣な姿勢に加え、学術的な成果を尊重しながら技術を実装し、市場との接点をつくる力を見た花岡は、秘密計算の社会実装をともに進めるパートナーとしてZenmuTechに共創を提案した。

ZenmuTechは早速花岡らとともに、企業現場のニーズや課題の把握に着手。その後、データを秘匿化したままデータベースに格納し、検索や集計などのデータ処理を安全に実行できる独自のソフトウェアツール「QueryAhead(クエリーアヘッド)」を開発し、開発者が使い慣れているSQLやPythonといった言語を用いて、暗号の専門知識がなくとも秘密計算を扱える仕組みに落とし込んだ。

「産総研の高速化技術があったからこそ、現実的な導入コストでソリューションを実現できるようになりました。そこから、秘密計算を実際のビジネスで活用するための取り組みが動き始めました」(國井)

大原は、秘密計算の社会実装を進める上で、研究機関とは異なるZenmuTechの立場や機動力が大きな役割を果たしたと話す。

「産総研が理論や基盤技術を深める一方で、ZenmuTechさんは既存事業との調整に縛られることなく、『秘密計算』という技術の軸をぶらさずに市場との接点をつくってくれました。私自身、学生時代からこの高速化研究に没頭してきましたが、当時は公道を走ることを全く考えず、特殊なサーキットを走るF1カーをつくるようなアプローチでした。しかしビジネスでは公道を走れなければ意味がない。社会実装に向けたそのギャップをZenmuTechさんと一緒に一つひとつ埋めていく作業は、非常に充実した時間でした」(大原)

産業技術総合研究所 サイバーフィジカルセキュリティ研究部門 セキュアプラットフォーム研究グループ 主任研究員 大原一真
産業技術総合研究所 サイバーフィジカルセキュリティ研究部門 セキュアプラットフォーム研究グループ 主任研究員 大原一真

個別最適の壁を越える、製造業サプライチェーンでの実践

企業に「秘密計算」技術を用いたソリューションを導入してもらうべく、産総研とZenmuTechはともに各社を訪問し、ヒアリングを重ねてきた。産総研の研究者も顧客とのミーティングに参加し、現場のニーズや課題を把握。それを研究室に持ち帰り、アルゴリズムや理論の面から解決策を検討する。ZenmuTechはその知見をプログラムやソリューションへ落とし込み、再び市場へ持ち込む。両者はこの往復を重ねながら、秘密計算の用途を探っていった。

彼らが最初に目をつけたのは個人情報だった。銀行口座や大手ECサイトの購入履歴など、個人情報保護法によって厳しく守られたデータは、企業にとって新たな事業やサービス開発の源泉となるものである。だが実際には、統計処理や匿名加工を経ずに生データを扱うことへの法的・心理的ハードルは極めて高く、具体的な導入には至らなかった。

転機になったのは、企業の営業情報や製造業の実験データなど、機密情報を個人情報以外にも広げたことだ。個人にひもづかないかたちで企業に眠る「虎の子データ」にも、外部には出せないというジレンマがある。「ためておくだけでなく、活用しなければ今後困るだろう」と切実な課題意識を持つ企業へとフォーカスをシフトさせてから、プロジェクトは具体的なPoC(Proof of Concept:概念実証)へと大きく動き出した。

具体例のひとつが製造業のサプライチェーンにおける活用だ。

他社から材料を仕入れて最終製品をつくる企業にとって、より深い次元で製品開発を行おうとするには仕入れた材料のデータが必要となる。一方で材料を提供する側の企業からすれば、それは当然、社外に出せない機密情報だ。この企業間のデータ共有という壁を越える手段が「秘密計算」である。ZenmuTech執行役員CSO 平岡正明(以下、平岡)は、その活用について次のように話す。

「本来であれば、自社のデータと他社のデータを突き合わせた方が、品質向上や歩留まり改善につなげやすい。ただ、法人が違えば、お互いの機密情報を簡単に出し合うことはできません。そこで秘密計算を使えば、互いにデータの中身を開示することなく、それらを組み合わせた分析が可能になります。実際に、こうしたサプライチェーンの文脈において「QueryAhead」が活用され、企業間の安全かつ有機的なデータ連携が進んでいます」(平岡)

ほかにも、材料化学の分野では、複数企業が参加するコンソーシアムでの活用も進む。各社が長年蓄積してきた実験データをもち寄り、業界全体の底上げにつなげるため、産総研が中立的な立場からプラットフォームづくりを主導。各社がデータの中身を互いに明かすことなく、複数社分のデータをまとめて分析できる仕組みを構築した。このコンソーシアムにはすでに40社ほどが参加している。

かつて「秘密計算」の普及を阻んでいた最大の壁は、費用対効果だった。複数のコンピューターを駆使するシステムは導入コストがかかり、個別企業の閉じた論理の中では、その投資がどのようなリターンをもたらすか見えにくかったのだ。しかし、現在では、産総研による技術の高速化と、ZenmuTechとの用途開発やPoCを経て、製造業をはじめ複数の業界で秘密計算の導入や実証が進み、事業として成立させる段階に入っている。 

産総研は、研究成果の社会実装を加速するため、23年4月に100%出資の株式会社AIST Solutions(以下、AISol)を設立し、企業との共同研究の推進やスタートアップの支援などを行っている。ZenmuTechは、技術力とデータ保護や利活用といった社会課題への取り組みと、事業としての将来性が評価され、同年10月にAISolより出資を受けた。その後、25年3月に、東京証券取引所グロース市場へ新規上場を果たしており、社会からの期待が高まっている。

大原は、秘密計算について聞かせてほしいと言われる機会が最近格段に増えてきていると実感を語る。

「セキュリティ分野はどうしてもコスト部門としてとらえられがちです。しかし秘密計算は、データを守りながら同時に活用もできる、いわば“守りながら攻める”ための技術です。その価値をもっと多くの方に知っていただきたいと思っています」(大原)

ZenmuTech 執行役員CSO 平岡正明
ZenmuTech 執行役員CSO 平岡正明

國井と平岡は共創の先に見据える未来を次のように話す。

「私たちが目指すのは、弊社のビジョンのとおり、データがもっと自由になれる社会の実現です。機密情報を抱えた企業同士が安全につながり、産業全体で新たなイノベーションを創出する。そのための確実な手だてとして、『秘密計算技術』を社会に根付かせていきたいと考えています」(國井)

「今でこそ最先端の技術として語られる『秘密計算』ですが、スマホやクラウドがそうだったように、5年後、10年後には誰もがその存在を意識することなく、バックグラウンドで当たり前のように使われているインフラになっているはずです。理論研究が社会実装へと羽ばたいていくそのストーリーを、見届けたいと思っています」(平岡) 

製造業や材料開発など、企業との共創を通じて秘密計算の新たな用途が見え始めている。大原は、その可能性についてこう語る。

「研究室の中では想定していなかった課題やニーズに、企業との議論を通じて数多く出会いました。今後も研究者だけで技術を磨くのではなく、さまざまな企業との共創を通じて、秘密計算の適用領域を広げていきたいと考えています」(大原)

そして、国家の未来を見据えてこの技術の社会実装を牽引してきた花岡は、こう締めくくる。

「これまで秘密計算に注目する企業はほとんどありませんでした。しかしAI時代を迎え、企業におけるデータの重要性と緊急性は急速に高まっています。もっとも、技術が複雑であるゆえに、どの手法がどのような状況で真の価値をもたらすのかをステークホルダーに正しく浸透させることは容易ではありません。それでもなお、機密を守りながら情報を有効に活用し、より良い社会の実現へとつなげていく。その技術実装を完遂することこそが、われわれの果たすべき役割だと考えています」(花岡)

産総研が切り開いてきた世界最先端の知見は、自社の枠を超えて産業全体の持続可能性を高め、日本の市場を再び豊かにするための強力なエンジンとなりうる。「データを隠したまま生かす」という新しい常識が、日本産業の成長を後押しする日は、そう遠くないかもしれない。

国立研究開発法人産業技術総合研究所
https://www.aist.go.jp/aist_j/business/index.html

産総研25周年スペシャルサイト
https://www.aist.go.jp/sc/25th/

ZenmuTech
https://zenmutech.com/


くにい・しんぺい◎ZenmuTech専務取締役COO兼CTO。東京工業大学卒業後、東芝に入社。PCの設計開発や商品企画に従事する。2017年に同社CTOとして参画。25年より現職。

ひらおか・まさあき◎ZenmuTech執行役員CSO。2015年入社。事業の創出から、開発、執行までの全領域を担う。25年より現職。

はなおか・ごいちろう◎産業技術総合研究所 サイバーフィジカルセキュリティ研究部門 首席研究員。2002年、東京大学大学院の電子情報工学専攻にて博士課程を修了。05年に産業技術総合研究所に入所。内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)のサブプログラムディレクター。18年度、科学技術分野の文部科学大臣表彰で科学技術賞を受賞。

おおはら・かずま◎産業技術総合研究所 サイバーフィジカルセキュリティ研究部門 セキュアプラットフォーム研究グループ 主任研究員。2014年からNECの中央研究所で研究員を務めたのち、20年に産総研に入所。

Promoted by 国立研究開発法人産業技術総合研究所 / text by Bunji Yatomi / photographs by Daichi Saito / edited by Aya Ohtou(CRAING)