希少で命に関わる病気を抱えた女性が病院を訪れ、医師たちがAIツールを使って自然界に存在する治療法を特定する——そんな世界を想像してみてほしい。AIと生化学の最新の融合により、これは現実になりつつある。
先月、スタンフォード大学とアーク研究所の科学者たちは、医療に利益をもたらすAIの開発において重要なマイルストーンを達成した。彼らはAIに植物、動物、微生物のDNA構造のパターンを認識させ、特定の種類の細菌に感染して排除できる新しいウイルスを作り出すことに成功したのだ。これは、薬剤耐性菌との闘いに新たな可能性を切り開くものであると同時に、自然界のデータの利用に関する新たな疑問も投げかけている。
このような進歩と、それがもたらす健康、経済、金融上の利益は、最終的には生物多様性と健全な生態系へのアクセスにかかっている。したがって、こうした生態系に依存するサプライチェーンを保護することは、革新的な医療ソリューションを継続的に提供するための鍵となる。しかし、デジタル配列情報(DSI:生物の遺伝情報をデジタル化したデータ)の商業利用の拡大は、機関投資家にとってまだ主要な関心事にはなっていない。また、2030年までに生物多様性の損失を阻止し、回復に転じさせるという多国間で合意された目標に対する、国連初の世界的な進捗状況の評価では、民間資金の投入が遅れており、DSIから得られる商業的利益を生物多様性の保全へと還元する初の基金「カリ基金(Cali Fund)」の立ち上がりが遅いことが示された。
デジタル時代の自然の薬局
自然生態系は極めて多様な生化学工場であり、医薬品、ワクチン、パーソナルケア製品の開発に不可欠な遺伝情報を内包している。製薬・バイオテクノロジー業界は、健全な生態系と、自然由来のDSIへのアクセスに大きく依存している。医薬品の約80%は天然化合物に起源をたどる。生物多様性は、製薬業界にとって最大・最古、そして最も過小評価されているサプライヤーなのだ。
1971年、化学者らは太平洋イチイの樹皮から、後にタキソールとなる化合物を単離した。これは、これまでに開発された植物由来の抗がん剤の中で、最も商業的に成功したものの1つである。時代は進み、1992年には、ある生化学者がアメリカドクトカゲの毒から、後にオゼンピックの一部となる化合物を発見した。オゼンピックは、GLP-1糖尿病の治療に数百万人が使用する薬である。2024年には、この薬の売上が急増し、デンマークの製薬会社ノボ ノルディスクの価値をデンマークの国内総生産(GDP)全体を上回る水準に押し上げた。
人工知能と医薬品開発の組み合わせは巨大ビジネスである。世界のAI創薬市場は2025年に約24億ドル(約3770億円)と評価され、2033年までに138億ドル(約2兆1700億円)に達すると予測されている。年平均成長率は約25%に上る。自然界のデジタル図書館はかつてないスピードでダウンロードされているが、同時に、その利用者は自社ビジネスが直面する自然喪失リスクの拡大を理解し対処することを怠り、自ら本を燃やしてしまっているのだ。
専門家は、この分野では2年に1つ、有望な医療用化合物が絶滅によって失われていると推計している。工場や農場とは異なり、このサプライヤーは代替調達ができない。いったん失われれば、二度と手に入らないからだ。医薬品発見の原材料は、短期的な経済性と、自然資源を適切に評価できない金融システムの欠陥によって、搾取されている。
国連は、企業が生物多様性の喪失に対して行動できていないと警告している。とりわけ物理的リスクや自然関連リスクを測定する手法はまだ初期段階にあり、リスクは過小評価されている可能性が極めて高い。ケンブリッジ大学サステナビリティ・リーダーシップ研究所(CISL)のA-Trackプロジェクトでの私たちの取り組みは、企業や金融機関がどのように自然を意思決定により適切に組み込み、前向きな行動を拡大できるかを調査している。
生物多様性の喪失を食い止め、レジリエンスを築く数十億ドル規模の機会
科学者は、化合物の99%が未探索のままだと推計しており、広大でほとんど手つかずの潜在力が存在することを示している。研究者らが最近発表したデータによれば、熱帯林には顕花植物だけでも、未発見の医薬品価値が最大1兆2000億ドル(約188兆円)(推計は3820億ドル(約60兆円)から12億ドル(約1880億円))存在する。これは、新型コロナウイルス感染症のパンデミック中に世界がワクチンに支出した額のほぼ5倍である。この商業的数値は、生活の質の向上、平均余命の延伸、医療費の低下など、熱帯林に内包されるより広範な社会的健康便益の一部にすぎず、その価値は7兆ドル(約1100兆円)と推計されている。
森林喪失が続けば、潜在的な新薬発見のパイプラインは細っていく。2001年以降の森林破壊によって、すでに860億ドル(約13兆5000億円)の商業的な医薬品価値がリスクにさらされている。
森林破壊を食い止める行動を遅らせれば、損失は膨らむばかりであり、画期的な医療上の発見と商業的利益の可能性は縮小する。自然喪失を止めるための投資は、患者に多大な健康上の利益をもたらしながら、サプライチェーンにレジリエンスを組み込む。2030年までに森林破壊を食い止めるべく今行動すれば、現在の森林破壊トレンドの下で失う可能性のある医薬品価値のおよそ10倍を守ることができる。
証拠は明白である。自然は、経済と健康の全体にわたる価値の不可欠な基盤を提供している。製薬セクターは、自然資産との結びつきが最も強い分野の1つである。企業が生物多様性と、それを守る先住民コミュニティを財務上の意思決定に組み込むようにならない限り、画期的医薬品の健全なパイプラインはリスクにさらされる。
資産運用会社は、こうしたリスクをめぐって製薬会社との対話を始めている。BNPパリバは、業界全体で医薬品やワクチンの試験に使われているカブトガニの血液の利用について、製薬会社に問題を提起した。トリオドス銀行は、製薬会社に対し、たとえばカリ基金への拠出を通じて、世界的な生物多様性イニシアチブと整合するよう積極的に促している。カリ基金は、世界の生物多様性の大部分を守る先住民と地域コミュニティに民間資金を振り向ける新たな多国間基金である。
CBD COP17:自然資産を高リスクから長期的レジリエンスへ移行させる
生物多様性目標の達成に向けた軌道から外れているにもかかわらず、初の世界的な進捗レビューでは、自然保護への政治的意思がかつてないほど高まっていること、そして79%の国が、自然の遺伝データから利益を得る企業に対して対価の支払いを促す方法を模索していることが示された。
各国政府は、自然資産への投資がマクロ経済システムを安定させることを認識しつつある。英国政府による熱帯林永続基金(TFFF)への4億ポンドの投資は、経済の安定のために自然再生を優先する方向への移行を反映している。この構造的転換により、各国経済は自らの資産基盤を守りながら成長することが可能になる。
CBD COP17まで残り1カ月となる中、資金の流れはこうした優先事項を反映するのだろうか。医薬品発見のために自然界のDNAと伝統的知識を利用することは、何百年にもわたり研究開発戦略の中心にあった。企業のDSI利用をどのように規制すべきか、企業がカリ基金にどれだけ拠出すべきか、政府が企業に投資を促すにはどうすべきかについては、なお疑問が残る。それでも、1つの点は白日の下に明らかである。自然を慈善の対象として扱うのをやめる時が来ている。
世界の生物多様性、すなわち製薬業界にとって最大・最古、そして最も過小評価されているサプライヤーを守るには、企業が前に出て、自社の最終利益を脅かす差し迫った重要リスクに自主的に対処する必要がある。同時に、各国政府は、世界的に合意された仕組みを機能させるため、規制に対してより厳格な姿勢を取る必要がある。両者は連携して取り組まなければならない。
私たちは崖っぷちに立っており、そこから抜け出す唯一の道は、すべての主体がそれぞれの役割を果たすことだ。数十億の命を救う医薬品とワクチンのパイプラインを守りながら、株主リターンをもたらし、世界的な科学的リーダーシップを前進させること以上に大きな誘因は思い当たらない。



