私は大学というものを理解していたつもりだった。娘を大学に送り出すまでは
7年以上にわたり大学の学長を務めてきた私は、大学とは何のためにあるのかを理解しているつもりだった。この10年近く、リベラルアーツを擁護し、教授会を率い、卒業生イベントを主催し、高等教育の未来を憂えてきた。それだけではない。何千人もの親たちがキャンパスに車を乗り付け、新入生を送り届ける光景を見てきた。荷物を降ろし、子どもと別れの抱擁を交わし、誇りと不安の入り混じった表情で走り去っていく親たちを。
私はその瞬間を理解していると思っていた。自分の番が回ってくるまでは。
大学の目的を言葉にしようと何年も努めてきたが、自分の娘を大学へ送り出して初めて、ようやくそれを理解した。
大学とは、第一義的には職業や資格、さらには学問のための場所でもない。もっとはるかに不可思議で、はるかに古くからあるもののためにある。大学とは成人への通過儀礼であり、学生を子ども時代から大人へと導く旅なのである。
私の娘は18歳。家を離れる準備はできているが、完全に自立する準備はまだできていない。その「あいだ」の空間にこそ、大学は存在する。娘がその空間へ足を踏み入れる姿を見るまで、私はその空間の重要性を十分に理解していなかったのだと思う。心理学者や哲学者はこれを「リミナル(境界的)」空間と呼ぶ。文脈によって定義は異なるが、次の一点についてはすべての論者が一致している──リミナル空間は神聖であるということだ。
「神聖」という言葉は、いまや学問の世界であまり使われない。しかし新しい人生に踏み出す娘の姿を見て、私はこれ以外に相応しい言葉はないと悟った。その神聖な務めとは、学生たちが無垢さや想像力、創造性を失うことなく大人へと成長するのを手助けすることである。これこそが「アルマ・マーター」──ラテン語で「育ての母」を意味する言葉──の役割だ。
文化人類学における最も驚くべき発見の一つは、地球上のほぼすべての文化が、どれほど素朴で隔絶されたものであっても、子ども時代から成人期への移行を示す儀式を生み出してきたということだ。そうした儀式の細部は大きく異なるが、ほぼすべてに共通する点がある。若者が大人への入り口に達したとき、共同体は特別な導き手を任命し、新たな領域へと入るそのしきいをともに越えさせるのである。
親にはこの役割は果たせない。そして思春期の若者が自力で果たせるものでもない。だからこそ、この仕事は、長老やメンター、司祭といった、特別に任された人々に託されなければならない。
18歳の若者を、成人へと導く任務を特別に託された人々に委ねるという文化的伝統には、深い知恵がある。大学とは、その現代版である。そして、私たちがその役割を託す相手が学者であることには理がある。なぜなら学者とは、大人でありながら、子ども時代の最良の部分、すなわち想像力、好奇心、驚きの感覚を手放していない人々だからだ。
近ごろは高等教育を金銭的取引に還元することが流行している。家庭では「コストパフォーマンス」が語られ、政治家は「投資収益率」を口にする。新たな連邦規制ですら、卒業生の給与によって学問プログラムを評価しようと試みている──まるで音楽や芸術、宗教を学ぶことの価値が収入だけで測れるかのように。
しかし娘と別れの抱擁を交わしたとき、私は娘の将来の給与のことなど考えていなかった。考えていたのは、娘という人間の将来の姿だった。
私は、娘がどのような人物になっていくのか、そしてその人物になる手助けをしてくれる人々のことを考えていた。人生で最も形づくられる時期のいくつかを、娘とともに歩んでくれる教授たちのことを考えていた。娘が出会う友人、触れる思想、投げかける問い、犯す過ち、そして培う回復力のことを考えていた。
大学は商品ではない。それは通過の場であり、私たちの文化が手放す余裕などないものだ。なぜなら、年を重ねることは自動的に起こるが、よく大人になることは、そうではないからである。
今日、高等教育の目的をめぐる問いは数多く投げかけられている。だが何よりもまず、私たちの大学が真の「アルマ・マーター」であり続けるようにしようではないか。



