私たちはAIについて、間違った議論をしている。
大半の議論は、いまだに2つの極論のどちらかに行き着く。AIがすべてを変えようとしているか、あるいはAIは完全に過大評価されているか、だ。
ある人が、AIシステムがアプリを作り、難しい数学の問題を解き、これまで人が何時間もかけていた作業を数分でこなす様子を紹介する。すると別の誰かが、ChatGPTが「strawberry」という単語に「r」がいくつあるか数え損ねたスクリーンショットを投稿し、「見ろ、こんなものは役に立たない」と言う。
筆者はもう、どちらの立場もあまり有益だとは思えなくなった。
今重要なのは、AIが素晴らしいかどうかではなく、進化し続けるAIに私たちが十分に素早く適応できているかどうかだ。そして、私たちは適応できていない。
AI企業自身が「減速」を語り始めた理由
Anthropic(アンソロピック)のCEOであるダリオ・アモデイの新しいエッセイを読んだ。彼の主張を簡単に言えば、最も強力なAIシステムを構築している企業は、その能力を向上させるペースを緩めるべきだ、というものだ。止めるのではなく、緩める。
これはかなり大きな意味を持つ。
この競争の最前線に立つ人物のひとりが、その競争自体があまりにも急速に進みすぎているかもしれないと言っているのだ。もちろん、これに対して冷ややかな見方をすることもできるし、そう思うのも無理はない。アンソロピックには商業的な利害がある。OpenAIも、グーグルも、マイクロソフトも同じだ。
しかし私たちは、発言者に何らかの利害があるという理由だけで議論を退けるのがあまりに早すぎるようになってしまったと思う。利害は人を偏らせるかもしれないが、それだけで自動的に間違いになるわけではない。
AIがAI開発を加速させる仕組み
現在、誰もが懸念しているのは、人間がより優れたAIを構築するのをAIが支援するケースが増えている点だ。エンジニアはすでに、コードの記述、アイデアのテスト、結果の分析、問題の発見、そして研究の加速にAIシステムを活用している。こうした改善が、次世代のシステム開発へとつながる。
そして、その次世代システムは、さらにその先に生まれるシステムの開発において、いっそう役立つようになる。これは、全能の超知能がどこかの地下室で密かに自らを改良しているという意味ではない。もっともSNSはそうした噂で溢れているが。
人間は依然として深く関与している。しかし、そのループは確実に狭まっている。
もしAI自体がAI研究を劇的に加速させ始めれば、私たちがここ数年で慣れ親しんできた変化のペースは、これから数年で経験するペースとはまったく異なるものになるかもしれない。
これが、単なるシリコンバレーの独りよがりの話ではなく、私たち自身にとって極めて重要な問題であることが理解できるだろう。
経験豊富なプロフェッショナルにとってのAIの意味
筆者は40歳で、自分の仕事がそれなりにできると思っている。15〜20年かけて経験を積んできた。人々が私を頼るのは、私に判断力があるからだ。現在、私はAIを使っている。メールの作成、レポートの支援、会議の要約などに役立てている。以前なら1時間も睨み合っていたような作業の、最初の取っかかりをAIが提供してくれる。
それは確かに便利だ。
しかし、頭の片隅には常に疑問がある。「もしこれがさらに進化したら、自分がもたらす価値とは一体何なのだろうか?」と。何百万人もの人々が、これと似たような問いを心の中で密かに自問しているはずだ。
AI、自動化、そして仕事の未来
ここで、あなたがチームの管理者で、上司からAI戦略を求められていると想像してみてほしい。チームのメンバーは、どのAIツールの使用が許可されているかを知りたがっている。さらに、財務部門はさらなる生産性の向上を期待し始め、経営幹部は効率化を求める。消え去る可能性のある仕事の断片が、すでに目に見えているはずだ。
しかし、もう一つの問題がある。退屈な仕事の多くは、人が学ぶ場所でもあるという点だ。最初の草案を作ることでより深い思考が可能になり、リサーチをすることで何ができるのか視野が広がる。ありふれた事務作業は、脳を20分間休ませるのに役立ち、その後に再び深い仕事に取り組むための英気を養う。
経験を積んだ人にとっては価値がなさそうに見えるが、経験がなかった頃にはおそらく非常に重要だったもの。それをAIがすべて代行するようになったら、どうなるのか。経験のない人は、どうやって経験を積んでいくのか。この問いを投げかける人を、十分に目にしていない。
AI時代に子どもたちは何を学ぶべきか
さらに、家庭の食卓で交わされる会話もある。「子どもたちには何を学ばせるべきか」「宿題にAIを使わせるべきか」「彼らが目指している学位は、将来もまだ価値があるのだろうか」「学校を卒業する時、実際にどんな仕事が存在しているのだろうか」といった疑問だ。
筆者は学校や教育機関と仕事をする機会が多いが、このような不安を抱いているのは親だけではない。
学校も、大学も、雇用主も、そして政府も模索している最中だ。完成した地図を持っている人など誰もいない。
AIが仕事をこなせるようになったとき、エントリーレベルの仕事はどうなるのか
そして、あなたが22歳や23歳であれば、問題はさらに差し迫ったものになる。かつて最初の一歩を踏み出す機会を与えてくれた仕事を、すべてAIがこなせるようになったらどうなるのだろうか。
何十年もの間、私たちは若者に対して、キャリアの道筋はかなり予測可能であると説いてきた。勉強し、資格を取り、初級職に就き、実務をこなし、自分より知識のある人から学び、スキルを高め、ステップアップしていく。
このモデルは、初級の仕事が存在することを前提としている。もし組織が、その仕事をこなす人員をほとんど必要としなくなったらどうなるのだろうか。これは、遠いSFの世界の話ではない。
すでに経営上の問題、採用の問題、研修の問題、そしてキャリアをスタートさせようとしている個人にとっての非常に切実な問題になりつつある。
AIをめぐる対話は、ChatGPTやプロンプトの先へ進む必要がある
だからこそ、AIに関する対話はもう少し成熟させる必要があると考える。
単にChatGPTが好きかどうかという話であってはならないし、AIの熱狂的信者になることでもない。そして、いくつかの巧妙なプロンプトのテクニックを学ぶことに矮小化されては絶対にならない。
より大きな問いは、はるかに興味深いものだ。
人間は、これから何に習熟する必要があるのだろうか。
書き手は、それでも何を執筆すべきなのか。アナリストは、それでも何を分析すべきなのか。学生は、それでも何に頭を悩ませるべきなのか。新入社員は、それでも何を練習すべきなのか。これらは難しい問いだ。なぜなら、効率性というのは信じられないほど魅力的に映るからだ。
AIのおかげで作業を半分の時間で終わらせることができれば、それは進歩のように感じられる。実際にそうであることもあるが、常にそうだとは限らない。もし新卒の社員がAIを使って素晴らしい成果物を作ったとしても、なぜそれが正しいのかを説明できない場合、その人は本当に能力を高めたと言えるのだろうか。
「AIリテラシー」の真の意味
筆者が懸念しているのは、誰かが最新のプロンプトのテクニックを知っているかどうかよりも、こうしたことだ。私たちは、「AIリテラシー」が真に意味するものについて、より成熟した考えを持つ必要がある。ツールの使い方を知ることは、もちろんその一部だが、それだけでは不十分だ。
AIができないからではなく、人間が依然としてそれを行う必要があるからこそ、意識的に守るべき事柄に対して、筆者はますます関心を強めている。私たちの判断力、明晰な思考、コミュニケーション、好奇心、そしてセンス(審美眼)。難しい問題とじっくり向き合い、それを真に理解する能力。そうした要素が、価値を失うどころか、突如としていっそう貴重なものに思えてくる。
奇妙なことに、多くの組織は依然としてこの議論の一段階下で足踏みしている。彼らは、どのツールを購入すべきか、どのプロンプトが最適か、そしてどのようにワークフローを自動化するかにばかり焦点を当てている。
個人、管理者、そして親がAIについてどう考えるべきか
個人としては、AIを活用すればよい。適切に使い、時間を節約し、自分を助けさせればいい。しかし、作業が「速く」なっただけでなく、自分自身が「成長して」いるかどうかを問い続けなければならない。
人を管理する立場であれば、何を自動化できるかばかりを問いかけてはならない。優秀な人材になるために、部下にはどのような経験が必要なのかを問いかけるべきだ。時には、課題に対する最も非効率なアプローチこそが、人に最も多くの教訓を与える道となる。
親であれば、子どもが15年後に就くべき正確な仕事を予測することなど、あまり気にする必要はない。そんなことは誰にもわからない。それよりも、子どもたちが学ぶことを得意になり、学ぶことを愛しているかどうかに、はるかに焦点を当てるべきだ。
そして、もしあなたがキャリアをスタートさせたばかりなら、ここにも厳しい現実がある。AIによって、自分を実力以上に見せかけてはならない。もちろんAIを利用するのは良いが、成果物の背後にあるあなた自身の能力が確実に向上していることを確認するべきだ。
AIの安全性、規制、そして強力なAIを誰がコントロールするのか
アモデイが語る安全性に関する広範な主張は、真剣に受け止める価値がある。これらのシステムが強力になるほど、開発企業自身に「すべて問題ない」と言わせることを単純に信じるという考えに、筆者は違和感を覚える。
第三者機関による評価は理にかなっている。失敗が重大な結果を招く可能性のある他の業界では、厳格な検査が当然のように求められる。AIだけが例外である理由はない。
しかし、これには別の側面もある。安全性が、一握りの企業が強力なAIへのアクセスを支配するための口実になってはならない。おそらくそれが、今回の主張の根底にある意図なのだろう。その一方で、誰もが検査を経ずに極めて高度なシステムを導入できる世界もまた危険だ。この双方が真実であり得る。
それこそが、この議論全体の中で筆者が最も不満に感じている部分だ。私たちは議論を単純な二者択一に押し込めようとしがちだ。「善か悪か」「過大評価か現実か」「仕事が失われるか生まれるか」「禁止するか受け入れるか」。現実の世界はそれほど単純ではない。AIは並外れて優れていると同時に、危険でもあり得る。人の生産性を高める一方で、そのスキルを奪うこともあるのだ。
真の課題は、AIに適応する方法を学ぶこと
この10年の終わりにAIがどのような位置にあるかを正確に予測できる人など、誰もいないだろう。そして、そもそもそれを予測しようとすること自体が間違った取り組みであるとの確信を、筆者は強めている。より適切な取り組みは、状況がいかようになろうとも適応できる個人、チーム、学校、あるいは組織になることだ。
自己研鑽を続け、機械にできることが増えるからこそ、いっそう価値が高まる「人間らしさ」を守り抜くことだ。なぜなら、この時代を最も力強く乗り越えるのは、必ずしもAIを最も多く使っている人ではないと思うからだ。それは、AIを使いながらも、自らを高め続けられる人たちに違いない。



