その村の教会に永く務めた神父が、遠くの村に転任することになった。そこで、その神父への永年のお礼として、貧しい村人全員が、貴重なワインを一杯ずつ持ち寄り、樽に詰めて、神父へプレゼントすることになった。
さて、出発の前日、集会所に次々と村人がやってきて、置いてある樽に、一杯のワインを注いで帰っていった。そして、満杯になった樽を、村長が神父に贈呈した。
ところが、赴任地に到着した神父が、その樽を開けて、ワインを飲もうとしたところ、不思議なことが起こっていた。
そのワイン樽の中身が、水になっていたのだ。
そこで、連絡を受けた村長が原因を調べたところ、寂しい事実が明らかになった。
貧しい村人の大半が、貴重な一杯のワインの代わりに、そっと一杯の水を樽に注いでいたのだ。そして、誰もが、「自分一人だけなら、正直にワインを注がなくとも大丈夫だろう」と考えていたのだ。
これは、片田舎の村での不思議な出来事として語られる寓話だが、実は、同様の出来事は、現代の社会やコミュニティ、組織や企業において、我々が日常的に目撃している。
「自分一人ぐらいなら、大丈夫だろう」
その「小さな無責任」が集まると、「巨大な無責任」と呼ぶべき事態が生まれてしまう。
例えば、一人ひとりの政治家や官僚が持つ「これぐらいの予算ならば、何とかなるだろう」という甘い意識が集まると、膨大な「税金の無駄遣い」が生じてしまう。それは、多くの国民が日常的に感じていることである。
2020年東京五輪大会の新国立競技場建設コストが、なぜ、あのような無責任な膨張をしてしまうのか。そして、その原因を追究しても、「誰が、その予算膨張に責任を持っているのか」が分からないという「集団的無責任状況」。その奇妙な事態が、なぜ、生まれてしまうのか。
そこには、「組織」における「責任」というものの持つパラドックスが潜んでいる。
「全員の連帯責任だ」や「関係者の共同責任だ」という言葉が安易に語られる組織においては、「全員の責任なのだから、自分がやらなくとも、他の誰かが、その責任を実行するだろう」という密やかな他者依存の意識が生まれ、必ずと言ってよいほど、この集団的無責任状況が生まれてくる。
そして、その集団的無責任状況が、無用の公共施設の建設など、「巨額の税金無駄遣い」といった結果をもたらしたとき、関係者一人ひとりの意識を調べても、実は、どこにも「犯人」がいない。「確信犯」がいない。どこにも、意図的に「税金を無駄遣いしてやろう」という「悪人」はいない。
関係者の誰に聞いても、「国民の血税を大切に使わなければ」という「善意」の言葉が返ってくる。それは、決して「偽善」ではなく、その関係者の表面意識は、そう信じている。しかし、自身の深層意識に潜む「無責任さ」には、決して気がつかない。
こうした状況を見るとき、昔から語られる一つの言葉が、深刻な響きを持って心に浮かんでくる。
地獄への道は、善意で敷き詰められている。
21世紀の社会やコミュニティ、組織や企業を変革するという戦い。その戦いの本質は、まさに、こうした「どこにも悪人がいない。しかし、確実に、システム全体が悪化していく」という病との戦いに他ならない。
田坂広志◎東京大学卒業。工学博士。米国バテル記念研究所研究員、日本総合研究所取締役を経て、現在、多摩大学大学院教授。世界経済フォーラム(ダボス会議)GACメンバー。世界賢人会議ClubofBudapest日本代表。tasaka@hiroshitasaka.jp