レイチェル・グロスマン=カーンが、大規模なアクセシビリティのカンファレンスに登壇し、真面目な話をしていたときのことだ。突如、会場から笑いが起こった。彼女が振り返ると、カメラオペレーターが彼女の介助犬をズームアップし、背後の巨大スクリーンにその姿を大きく映し出していた。「あの瞬間、関心はスピーカーでありプロフェッショナルである私から完全に離れ、娯楽としての支援技術(アシスティブ・テクノロジー)へと移ってしまった」と彼女は私に語った。「傷つき、過小評価されたと感じた。実質的に、発言を封じられたのも同然だった。専門家として招かれたはずのステージが、障害を理由に奪われてしまったのだ」
このエピソードは、アクセシビリティの分野がいまだ解決できていない問いの核心を突いている。当事者を同じ「部屋」に招き入れること自体は、少なくとも書類上は、多くの大企業においてすでにクリアされた課題だ。しかし、彼らがその場に加わった後、その権威や尊厳を維持し続けることは、いまだに達成されていない。
アクセシビリティのプロダクトリーダーであるナンディタ・グプタと、アクセシビリティのデザインリーダーであるグロスマン=カーンは、フォーチュン10企業を含む世界最大級のテクノロジー企業(経験した組織の規模は大小多岐にわたる)の内部で、アクセシビリティに関するイニシアチブを推進してきた。ともにテック業界で働く障害当事者の女性であり、設計を行う側と受ける側の両面からこの分野を見つめてきた。2人の新著『Accessibility: The Illustrated Guide』が、Packt Publishingから出版された。
2人は、業界が通常は切り離して考えている2つの議論を展開している。1つは、組織のなかに招き入れられた後、誰の意見が聞き届けられるのかという問題。もう1つは、問いかけることを学習していない機械によって、ソフトウェア自体が書かれるようになったら何が起きるかという問題だ。
専門家という罠
2人は、多くの組織がうらやむようなリソース、すなわち、専任のアクセシビリティチーム、潤沢な予算、法的強制力を持つ強力なコンプライアンス基準を備えた企業で専門性を培ってきた。そこで彼女たちが学んだのは、そうした体制が、本来達成すべき目的をいかに容易に損ない得るかということだった。「専任のアクセシビリティチームは極めて価値がある。しかし、アクセシビリティはアクセシビリティの専門家が責任を持つべきものだ、という考えを意図せず補強してしまうこともある。決してそうではない」と2人は語る。
コンプライアンス(法令順守)は最低限の基準を示すものだ。「WCAG(ウェブ・コンテンツ・アクセシビリティ・ガイドライン)」への適合や調達要件、法的基準は、それらがなければ存在しない説明責任を生み出す。だが、コンプライアンスでは、組織改編を経てもなお生き続けるような「文化」を作ることはできない。彼女たちの言葉を借りれば、すべての監査に合格したとしても、その重要性を理解している者が社内にほぼ一人もいないという組織になり得るのだ。
「アクセシビリティチームは専門知識を提供する。しかし、アクセシビリティを永続させるのは文化だ」と2人は述べる。
文化とは、彼女たちに言わせれば「人々がいつ学ぶか」によって決まる。大半の人は、自分が作るものを障害者が利用できるようにする方法を一度も教わらないまま社会に出る。専門資格は存在するものの、すでにその問題に関心を持っている人にしか届かない傾向がある。「他者を排除しない方法を学ぶために、わざわざアクセシビリティを専門に選ぶ必要はないはずだ」
グロスマン=カーンは、別のあり方を示す小さなエピソードを挙げた。彼女が新しいパソコンをセットアップしている様子を見ていた5歳の息子が、VoiceOver(ボイスオーバー:画面読み上げ機能)をオンにする前に、目の見えない人はどうやって画面で何が起きているかを知るのかと尋ねたという。5歳にして、彼はすでに「誰が取り残されているか」に気づく習慣を身につけていた。なぜなら、それが彼の身の回りで当たり前に交わされる会話の一部だったからだ。
「障害税」という見えない負担
そうした習慣が育まれない場合、そのコストは他の誰かが引き受けることになる。実質的に、その「誰か」とは通常、障害のある同僚だ。
グプタとグロスマン=カーンは、自分たちの存在を考慮して作られていない職場で、障害のある従業員がただそこにいるだけで引き受けざるを得ない、無報酬の労力を「障害税」と表現する。彼女たちのより鋭い指摘は、それが1つではなく2つの仕事をこなしていることに等しいという点だ。代替テキスト(画像の視覚情報を説明するテキスト。alt属性など)を修正することは、明確で短時間で済む技術的な作業だ。しかし、少し身構えている同僚に「なぜそれが重要なのか」を繰り返し説明することは感情労働である。この後半の労力は、時間がかかり、記録に残しにくく、顧みられることがほとんどない。
「障害のある従業員が受けるのは、意図ではなく影響だ」と2人は語る。善意で行動する人は多い。しかし、本来の業務に加えて啓発やアドボカシー活動を担わされる負担が、それによって相殺されるわけではない。
この負担を再分配するための彼女たちの処方箋は、3つの要素からなる。第1に、すでに課題の影響を受けている当事者だけでなく、全員を教育すること。代替テキストに関する唯一の専門知識が、それを必要とする当事者だけにある組織は、依頼を最も断りにくい人々に専門性をアウトソーシングしていることになるからだ。第2に、正式な障害者諮問機関を構築し、そこに適切な報酬を支払うこと。これにより、フィードバックは会議に居合わせた障害のある従業員に頼るのではなく、正式なチャンネルを通じて行われるようになる。第3に、障害のあるユーザーに報酬を支払って製品テストを行ってもらうこと。予算を確保したうえで、彼らを交えたユーザービリティテストを実施することを、単なる「善意の仕草」ではなく、標準的なプロセスと位置づけることだ。
これら3つを怠った場合の代償は、負担を背負わされた人々の燃え尽き症候群や離職、エラーが構造的に修正されずに個別にその場しのぎで対応されることで蓄積していく「アクセシビリティ負債」、そして、自らの専門知識が無償で利用されることはあっても予算を割く価値はないのだという、障害のある全従業員への冷ややかなシグナルとなって現れる。
AIが最低基準を引き上げる場所、そして足場を崩す場所
現在では、コンテンツがそもそも利用可能かどうかを左右する代替テキスト、キャプション、要約の多くをAIが生成している。両氏は、これが主に「量」の面において進歩であると明言している。何百万もの製品を抱える企業が、個々の説明を手書きで作成することは不可能であり、生成AIによるそこそこの品質の説明に代わる現実的な選択肢は、これまで「説明なし」しかなかったからだ。
視覚障害者のコミュニティでは、不正確な代替テキストは全くないよりも悪いという意見も多く、活発な議論が交わされている。しかし、障害の有無を問わない1735人の米国成人を対象に、AIの利用体験を調査した米盲人財団(AFB)の最近の調査によると、状況はより複雑だ。視覚説明ツールを使用しているユーザーの過半数が、生成された説明について「ほぼ、あるいは極めて正確」と回答している。
説明に「判断」が必要とされる場面で、AIの限界が浮き彫りになる。代替テキストは、人物の人種、ジェンダー、障害の有無などを推測すべきだろうか。これはパターンマッチングではなく倫理的な判断であり、グプタとグロスマン=カーンは、それは人間が行うべきだと主張する。人間の監視(ガバナンス)を排除してしまえば、生じる誤りは単なるうわべの間違いにとどまらなくなり、人々を誤って表現し、尊厳を傷つけることになりかねない。
音声技術においても、同様の分断が存在する。自動話者識別やリアルタイム翻訳は、現実の障壁を解消しつつある。だが、それらのツールはすべて、学習データがどれほどインクルーシブ(包摂的)であるかに依存している。もしデータセットに吃音(きつおん)やなじみのないアクセント(訛り)が含まれていなければ、その欠落は深刻な問題として表面化する。咳き込むユーザーのデータを学習していないリアルタイム翻訳ツールは、最も必要とされている瞬間に、ごくありふれた理由で動作を停止するかもしれない。データセットに何を組み込むかを決める人物が、そのテクノロジーが誰に役立つかを決めているのだ。
グプタは、その危機感を私以上に印象的に表現してくれた。「AIによって、私たちはかつてないほどのスピードで前進している。しかし今や私たちは、間違った方向に時速1000マイルで突き進む力も手に入れてしまったのだ」
これこそが、アクセシビリティの議論において、いまだにほぼ誰も見積もっていないリスクだ。マイクロソフトの最高技術責任者(CTO)であるケビン・スコットは、5年以内にコードの95%がAIによって生成され、人間が1行ずつ書くコードはごくわずかになると予測している。
もしそれが現実となれば、リスクはもはや「AIがコンテンツを説明する」というレベルにとどまらない。スクリーンリーダーがページを解釈できるか、フォームがキーボードだけで操作できるか、ボタンにフォーカス状態(選択状態)が設定されているかといった、ソフトウェアそのものをAIが書くことになる。コードとは、アクセシビリティが根本から「組み込まれる」か、あるいは「排除される」かの境界線となるレイヤーだ。デフォルトでアクセシビリティのパターンを学習していないモデルは、それを監査することのない開発チームの手によって、数百万もの製品に排除の構造を複製し続けるだろう。この欠陥は、いくつかの孤立したバグではなく、構造的な失敗なのだ。
アクセシブルな製品を作る上で、スピードが難関だったことは一度もない。難しかったのは常に、方向性だった。
最高経営責任者(CEO)が変えられること
CEOが取ることのできる、最も効果的な行動は何かと尋ねると、2人は難易度の低い順に3つの対策を挙げた。
第1は構造的なものだ。最高アクセシビリティ責任者(CAO)、あるいはアクセシビリティを明確な担当領域とするシニアリーダーを任命すること。ただし、その肩書が機能するためには、権限、リソース、予算が伴っていること、そして、すべての課題を一人で背負い込むのではなく、組織全体に説明責任を分散させる権限を与えられていることが条件となる。
第2は運用に関わるものだ。アクセシビリティに関するハッカソンに資金を提供すること。目標や成功基準にアクセシビリティを組み込むこと。障害のある当事者を交え、最初からアクセス性を考慮して開発を行ったチームを称えること。啓発週間や製品の発表直後といった特別な時期だけでなく、何でもない平時における全社向けメッセージや全体会議でも、日常的にこのテーマについて発信することだ。
第3は、リーダー個人の行動であり、彼女たちが最も重要視しているものだ。経営陣による発信、タウンホールミーティング、決算発表会などは、企業が発信する最も注目度の高いアウトプットである。そこで用いられるグラフは、目で見えない人のために言葉で説明されているか。色だけに頼らずに情報を伝えているか。キャプション(字幕)は提供されているか。障害のある人々が、他のすべての人と同じようにその体験に参加できているか、といった点だ。
「リーダーが何を一貫して優先し、資金を投じ、語り、自ら実践しているかを、社員はよく見ている」と彼女たちは言う。スライドの提示といったごく当たり前の行為が、聴衆の一部を排除してしまうことがあり、その解決策は往々にして些細なものであるという理由から、彼女たちの著書ではまさにこのテーマに1章を割いている。
「使えるか」の先にあるもの
この分野にいまだ欠けている最後のピースは、「障害のある人々に意見を求めること」と「彼らを雇用すること」との間にあるギャップだという。
設計のあり方は、障害者の「ために(for)」デザインすることから、彼ら「とともに(with)」デザインすることへとシフトし、当事者をリサーチ協力者やコンサルタント、諮問委員として招き入れるようになってきている。だが、グロスマン=カーンとグプタは、それを最終目的地ではなく、単なる通過点と捉えている。「障害のある人に意見を聞くだけで終わらせてはならない。彼らを雇用し、リーダーシップを取らせるべきだ」
その傾向が最も顕著に現れるのがユーザーリサーチだ。障害のある参加者は通常、製品が完成した後の「アクセシビリティ調査」や監査のためにスポットで集められる。彼らが開発初期の課題発見やコンセプト開発、一般的なユーザービリティテストから除外される妥当な理由はない。また、もし試作品(プロトタイプ)をスクリーンリーダーのユーザーが操作できないのであれば、それはデザイン側の問題であって、その参加者を除外する理由にはならない。彼女たちは、これこそがAIの力を借りられる領域だとも指摘している。開発の最終段階で後付けするのではなく、初日からスクリーンリーダーに対応した試作品を低コストで作成できるようになるからだ。
さらに、やめるべき2つの悪習慣がある。1つは、障害のあるユーザーを「全ユーザーの0.1%」といった四捨五入の端数のように扱うことだ。実際の当事者には、すでに社内にいる同僚たちも含まれるだけでなく、長期的には、加齢や病気、ケガなどによって、ほぼすべての人が当事者になり得る。もう1つは、障害のある人々を一つの均一なグループとして扱うことだ。ある製品が視覚障害のあるユーザーにも、聴覚障害のあるユーザーにも個別に機能したとしても、盲ろう(視覚と聴覚の重複障害)のユーザーや、認知障害を併せ持つユーザーにとっては使えないかもしれない。言語に関しても同様のギャップが存在する。例えば、アメリカ手話(ASL)を使う人々や、英語よりもスペイン語でのサポートが適している障害当事者などだ。
この議論は、冒頭のグロスマン=カーンがステージで経験したエピソードへと回帰する。彼女は、企業のビデオ通話でも同様の光景を目にしてきた。耳の聞こえないプロフェッショナルが発信したアイデアが、それを音声で伝えている健聴者の手話通訳者の手柄にされてしまい、同僚たちが後日、専門知識を持つ本人ではなく、言葉を伝達しただけの通訳者の方に問い合わせてしまうのだ。テクノロジーは、耳の聞こえない話し手のアイデンティティと、通訳された言葉を結びつけ始めつつある。しかし、その根底にある課題は、テクノロジー単体では解決できない。
「アクセシビリティとは、単に障害のある人を部屋に入れることだけではない。彼らがそこに加わった後も、その創造性(著者性)、権威、そして自律性を守るものであるべきだ」と彼女は語る。したがって、あらゆる製品、方針、あるいは職場において投げかけるべき問いは二重のものである。「その人は参加できているか」そして「私たちは、その人が自分自身として認識され、尊重され、その声が聞き届けられているか」ということだ。
それこそが、この分野がこれまで避けてきた、より高いハードルである。コンプライアンスは、ある人がタスクを技術的に完了できるかどうかを教えてくれる。だが、その体験が直感的であったか、尊厳が保たれたか、あるいは誰もが好んで選ぶようなものだったかまでは教えてくれない。グプタとグロスマン=カーンの言葉を借りるなら、業界は「障害のある人が使える」製品で満足するのをやめ、「彼らが愛してやまない」製品の開発に乗り出すべきなのだ。
これからの10年のソフトウェアを自動生成していくツール群は、すでに実用に投入されている。グプタの指摘通り、業界は方向性が定まらないまま、時速1000マイルのスピードで進み続けているのだ。



