2026年6月、スイスで開催されたアート・バーゼルを訪れました。43の国・地域から290のギャラリーが参加し、9万人が訪れる世界最大級のアートフェアです。会場に足を踏み入れた瞬間、ピカソの絵があり、ジャコメッティの彫刻が並ぶ。美術の教科書で見てきたような作家たちの作品が、美術館の展示ではなく、今まさに売買される対象として並んでいました。
「これが欧州の芸術市場なのか」と、圧倒されました。
圧倒されたのは、作品の質や価格だけではありません。それらを当然のように市場価値として成立させている、仕組みそのものでした。作家、作品、ギャラリー、批評、コレクター、そしてそれらを裏づける美術史――何百年もかけて結びつき、積み重なってきた厚みが、会場全体に漂っていました。
しかし正直に言えば、その熱気の中に日本の気配はほとんど感じられませんでした。
前回の記事で、退蔵院副住職・松山大耕氏との対話を通じて考えたことがあります。影を礼讃する美意識、内発からくる自己研鑽という、日本の工芸や禅的思想が持つ固有の価値は確かにある。ただ、関心が集まっていることと、私たちがその価値を十分に生かせていることは、同じではありません。
そもそも、ある国や地域に根差した価値は、どのようにして国境を越えるのでしょうか。何を変えずに残し、何を新しくしなければならないのでしょうか。
世界最大級のアート市場の現場で、日本に由来する作品はどのように受け止められているのか。そして、そこから私たちは何を学ぶことができるのか。アート・バーゼルで見た光景を手がかりに、日本の価値の届け方を考えてみたいと思います。
「個の活躍」と「日本の存在感」はイコールではない
アート・バーゼルの販売速報には、今井麗、安永正臣、杉本博司、草間彌生、河原温といった日本出身、あるいは日本にルーツを持つ作家の名前が並んでいました。
アート・バーゼルの大型作品部門「Unlimited(アンリミテッド)」で、草間彌生の高さ5.9メートルのオブジェを見つけたときには、思わず「ああ、さすがだ」と感じました。しかし同時に、彼女はもはや「日本人のアーティスト」としてそこにいるのではない、とも思いました。草間彌生は、草間彌生として評価されている。
それはアーティストにとって、ひとつの到達点なのだと思います。杉本博司も、河原温も同じです。彼らの作品は、「日本の作品」という枠組みではなく、戦後美術、コンセプチュアル・アート、写真史、彫刻史といった国際美術史の文脈の中で評価されています。
ニューヨークに本社を置くメガギャラリーのデイヴィッド・ツヴィルナーでは草間彌生や河原温の作品が販売されています。また、ロンドンに拠点を置く現代アートの商業ギャラリー、ホワイト・キューブがイサム・ノグチの作品を45万ドル(約7,000万円)で、同じくロンドンのリッソン・ギャラリーは杉本博司の作品を2万5000ドル(約400万円)で販売したと報じられています。これらは、日本的な美意識そのものへの評価というより、国際美術史における個人作家への評価と捉えるべきでしょう。
こうした個の躍進は、日本にとって喜ばしい出来事です。ただ、それは市場全体における日本の存在感の高まりとは、また別の話でもあります。では、アートマーケット全体は今、どのように動いているのでしょうか。



