CEOs

2026.09.19 11:15

【特選記事】「怒鳴らない」新CEOの流儀:サティア・ナデラはマイクロソフトをどう変革するか?

サティア・ナデラ Photo: Stuart Isett / Polaris / Newscom

入社2年目の1993年にプレゼンテーションをするサティア・ナデラ。ソフトウェア技術者としての評価も高い  Courtesy of Microsoft
入社2年目の1993年にプレゼンテーションをするサティア・ナデラ。ソフトウェア技術者としての評価も高い Courtesy of Microsoft

1990年にサティア・ナデラが一般企業への就職を選んだとき、ウィスコンシン大学ミルウォーキー校の同級生は、なぜ博士号を目指さないのかと彼に尋ねた。ナデラはこう答えた。

advertisement

「私に博士号は必要ありません。私は博士号をもつ人材を雇う立場になるつもりです」

エンジニアとして駆け出しの頃、彼は自分の進路をめぐって試行錯誤を繰り返していた。サン・マイクロシステムズに入社し、電子メールソフトの開発を手助けした。しかし、シカゴ大学ブース・スクール・オブ・ビジネスに通って投資銀行家になる計画を立て、1992年に同社を退職した。そのとき、マイクロソフトがウィンドウズNT部門の職を彼に提示した。ナデラは突如としてMBA取得の計画を週末プログラムへと切り替えた。そして、レドモンドへと向かったのである。

1990年代前半のマイクロソフトに加わるのは、映画制作が黄金期を迎えていた1920年代のハリウッドに身を投じるのに等しかった。デスクトップ向けソフトウェアが世界を席巻し、マイクロソフトの株価は年間最大122%の上昇を見せ、チャンスは無限に広がっていた。

advertisement

マイクロソフトの営業部隊はウォール街の金融機関に大挙して押し寄せ、サン社のワークステーションを排除して、Windows NT搭載の安価なサーバーへ切り替えるよう怒涛の売り込みをかけていた。ナデラは、控えめで注意深い技術専門家としてそのチームの1つに加わった。彼はゴールドマン・サックスなどのデータ担当者たちと信頼関係を築き、マイクロソフトが顧客の要求を確実に満たせるよう奔走した。当時のウォール街を担当していたマイクロソフトの元営業マン、フランク・アルテイルはこう振り返る。

「何としてもこの市場に風穴を開けようと、足がかりとなる小さな突破口を常に探していました。私たちの仕事の本質は、何よりも徹底的に顧客の声に耳を傾けることでした。そしてサティアは、その『聴く力』が飛び抜けて優れていたのです」

回収できた資産は「ソファ1台」

ナデラの公式経歴書は、1998年から2002年にかけてのドットコム・バブルの崩壊をそっと通り過ぎている。しかし、あの時代に彼が経験した苦闘は、今日の彼がマイクロソフトの困難な事業に対処する手法に影響を与えている可能性がある。1990年代のインターネット熱狂が崩壊した際、ナデラは安全なオフィス部門やウィンドウズ部門にとどまる道を選ばなかった。彼は中小企業のウェブサイト開設を支援する短命な事業「bCentral」の幹部に就任した。その期間の大半でナデラの上司を務めたダグ・バーガムは述懐する。

「ひどい状況でした。サティアと私は手当たり次第に事業を畳んでいました。ある会社を清算した際、回収可能な資産はあるかと私が尋ねると、担当者は『はい、ソファが1台あります』と答えました。ひょっとして私が知らない種類のソフトウェアを表す技術用語なのかと思って聞くと、相手は『いいえ、家具のソファです』と言うのです。回収できたのはそれだけでした」

バーガムは、マイクロソフトがその無謀な試みで7000万ドルを失ったと見積もっている。生まれながらの開発者であるナデラは、困難な時代にコストを削減することを学んだ。それが大規模な人員削減や失敗の承認を意味する場合であっても、彼は実行した。ナデラとバーガムは、自分たちの部門を「マイクロソフト・ビジネス・ソリューションズ」として再構築した。その再編にあたっては、バーガムが2001年に同社へ売却していた業務支援企業「グレートプレーンズ・ソフトウェア」の強みが大いに活かされた。

「bCentralの資産はいっさい残らなかったと思います。あの事業から得られた唯一の収穫はサティアでした」

次ページ > 「俊敏な追随者(ファスト・フォロワー)」戦略の破綻

advertisement

ForbesBrandVoice

人気記事