不幸なことに、エストニアは1939年、自国領内にソ連が海軍基地や航空基地を置くのを認めることを余儀なくされた(編集注:基地の設置は同年9月に締結された二国間の相互援助条約に基づくものだが、背景には前月に結ばれた独ソ不可侵条約の秘密議定書でエストニアがソ連の勢力圏に組み込まれたことがある)。当時、エストニア軍の現役兵力は1万4000人ほどだったが、ソ連はエストニアに2万5000人規模の兵力を駐留させた。1940年6月、ソ連はエストニアとの国境におよそ10万人の兵力を集結させ、エストニア政府に対し、実質的に親ソ政権の樹立と無制限の部隊駐留を要求する最後通牒を突きつけた。
パリは陥落したばかりだった。英国軍はフランス北部のダンケルクから撤退し、ドイツ軍による本土空襲(「ブリッツ」)などに備えていた。エストニアを助けられるような国はなかった。エストニア政府は降伏し、軍に対してソ連による占領に抵抗しないよう命じた。ただ、その後、ソ連に対する武装抵抗も始まった。「森の兄弟」と呼ばれるゲリラ戦士たちは、森林地帯などに身を隠し、地の利を生かして長期にわたって闘争を続けることになる。
エストニアはソ連による苛酷な占領に耐え、続いてナチ・ドイツによる苛酷な占領を経験した。さらに1944年には、再びソ連に占領されることになった。エストニアがようやく独立を回復したのは、それから50年以上が経過した1991年のことである。
30日間は自力で戦える体制に
1940年のエストニアは孤立し、兵力に劣り、国内にかなりの兵力のソ連軍の駐留を許していた。そこから教訓が得られた。
政治的には、NATO加盟国になった現在のエストニアは、もはや孤立していない。これは侵略を抑止するはずだが、現在の情勢では、米国に欧州を防衛する政治的意思があるのか疑問視する向きもある。
小国はどのようにして自国を守ることができるのか。エストニアはウクライナから教訓を学び、従来の防衛態勢からの脱却を進めている。これまでは、NATOの「トリップワイヤー(仕掛け線)」、つまり、攻撃を受ければNATOの全面的な軍事介入を誘発する前方配置部隊のプレゼンスに大きく依存していた。これに対して現在は、ドローンや長距離打撃システムに多額の投資を行い、前方での「拒否による抑止」を図っている。


